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第1章 家族構造の変遷 1.農耕社会の属性 肉体労働の典型と思われる農業は、いつの時代でも同じ労働観に支えられていたわけではない注-1。 農耕社会での人口は、土地の生産性の範囲を越えることはできず、土地からの収穫量が、そこで生活できる人間の数を決定した。 そしてそこでは、土地や自然の属性にしたがった労働観が、成立したのであった。 ここでは土地の属性が労働量を決めるのであって、賃金の多寡が労働量を左右するのではない。 それゆえに農耕社会の労働は、土地が与えてくれる生産性の範囲内で働く、つまり極大利潤の追及ではなく、生活の必要を満たすことをめざしたものになった。 東南アジアなど、現在も農耕社会に生きる人々は、一見怠惰に見える注-2が、決してそうではない。 彼らは工業社会とは異なった、農耕社会の労働観に生きているがゆえに、工業社会の人々からは怠惰に見えるだけなのである。 同じようにわが国の明治時代、すでに工業社会になっていたイギリスから来たC・ワーグマンは、日本人は勤勉ではないと観察していた記録がある注-3。 わが国をこよなく愛したC・ワーグマンですら、農耕社会の労働観を知らずのうちに、工業社会の労働観と比較してしまったのである。 工業社会になると工場ができ、土地以外に働く場所ができた。 そして、資本が土地の制約を離れて動き始めた。 工場では二交代・三交代勤務の昼夜操業が可能である。 操業能力も、人間の営みによって、いくらでも向上させることができる。 工場労働では、労働力を投入すればするだけ、そこからの収穫量は増加した。 ここで労働効率といった概念が発生し、賃金を増やせば、労働者はよりよく働くといった労働観が誕生した。 初期の工業社会では、いまだ肉体労働が支配的であることは農耕社会と同じでありながら、極大利潤の追及が発生したのである。 工業社会になってうまれた労働効率という概念は、農業にも波及した。 工業社会では、農業といえども、もはや農耕社会と同じではなかった。 農業にも工業社会の価値観が侵入し、大規模な潅漑や化学肥料の発明や品種の改良などによって、極大生産が指向されるようになった。 工業社会の成果が農業に反映されて、大幅に収穫量が膨大するという「緑の革命」がおきた。 それゆえ、農耕社会の人々が自然に生かしてもらうと考えたのに対して、工業社会では農業に従事する人々でも、土地や自然から収穫をあげると考えるようになった。 西洋文明が、自然を征服しようとするものに対して、東洋やわが国では、自然と共存してきたと見なす考えがある。 この違いが、狩猟社会と農耕社会の違いで説明される。 しかし、自然を征服しようとするのは、工業社会が長く先行した社会に特有な考え方だ、と見なしたほうが適切である。 近年、工業社会に突入したアジアの国々は、今きそって、自然の征服に乗り出しているのであるから。 農耕社会における家族の話である。 農業労働は、すべてが土地に対する労働だったので、家の同居人が増えることは、働き手が増えることを意味した。 その農家が耕作する土地の生産性の範囲内であれば、何人でも働き手が必要だった。 また反対に働き手であれば、生産性の範囲内で何人でも家に収容できた。 だから、農耕社会の家族は、いわゆる大家族になることができ、何人もの人々が一軒の家に生活していた。 祖父、祖母、戸主とその妻、そして何人かの子供たちが一緒に住んでいた。 それだけではなく、戸主の兄弟姉妹たちも一緒に住んでいたこともあった。 そのうえ、奉公人や住み込みの職人などといった血縁のない人間をも、同居させることすらあった。 換言すると、農耕社会の家族は、どんな成人をも、ただ飯を喰うだけの居候とはさせず、働き手として同居させ得たのである。 だから、今日からみると、はるかに大勢の人々が、同居することが許容されていた。 しかし、一世帯あたりの構成員が、5.12人だった1930年(昭和五年)でも、7人世帯が10.1%、8人世帯が6.9%、9人世帯が4.2%、10人以上世帯が4.1%あった。 家族構成員の平均的な人数が問題なのではない。 あるべき姿として、その社会に共通して考えられている家族形態が問われなければならない。 農耕社会ではすべての人間が、家に包摂されており、家は生産組織そのものであった。 工業社会になると、労働が工場などにおける個人の賃労働になったので、家は生産組織ではなくなった。 収入のある男性と収入のない女性という、対なる男女の結合性が表にでてきた。 工業社会の勤め人の家では、他に成人が同居しても、その家での労働に従事することはできず、同居人は単なる居候にならざるを得ない。 働かない居候をかかえこむほど、どこの家も裕福ではない。 そのため、血縁のない人間や薄い人間の同居は許されなくなった。 生産労働に従事する男性と、非生産労働である家事労働に従事する専業主婦の組み合わせが、工業社会の家族形態となった。 ここで核家族という概念が、家族のなかに登場するのである。 農耕社会の入り口にある狩猟・採集社会では、自然の恵みは気まぐれで、豊かとは限らなかったので、家族構成員の数は少なくならざるを得なかっただろう。 また、工業社会以前の農耕社会では、平均寿命が短かったので、実際の話は数世代にわたる人々の同居は困難だった。 しかし、対なる男女とその子供だけの家族が存在しても、また平均家族構成員が五人台だったとしても、家が生産組織であるがゆえに、農耕社会には核家族という概念は存在しない。 そこにあるのは、ただ人数の多い家族と少ない家族の違いだけである。 ともに独立した個人は存在せず、家への帰属意識が濃く家族の絆が強いという、大家族の家族観が貫かれているのである注-5。 土地と結びついた肉体労働が、生産の根底を支え、しかも家族のすべての構成員が、直接に生産労働(工業社会での有償労働に相当する)と結びつく農耕社会では、核家族なる概念がうまれることはない。 そして、核家族的な人間関係が、家族をとらえることはありえないのである。 農耕社会では、労働は土地を相手にした。 そしてどんな労働も、すべて人間の肉体によってなされた。 農地の耕作も、物を運ぶのも、水くみも、労働と名のつくものは、すべて人力でなされた。 女性も充分に働いてきた。 しかし、男性にくらべると、女性は非力だった。 日常の耕作は女性にもできた。しかし開墾は、男性の屈強な肉体が不可欠だった。 電気やガソリンもなかった。 動力となったのは、せいぜいが牛や馬くらいで、それとても扱うのには男性の屈強な腕力が必要だった。 だから男性が主、女性が従であった。 肉体労働が生産労働の根底を支える社会は、男性支配の社会といってもいい。 産業革命が起こり、土地以外にも労働対象が発生した。 農業以外にもさまざまな職業が発生した。 労働観の変化は、生産活動に大きな変化をもたらした。 自給自足が原則だった農耕社会が、他の隣接する社会と生産物の交換を始めた。 そして商品経済を生みだしたのである。 しかし、工業社会になったといっても、生産労働に肉体労働が不可欠だったことには変わりがなかった。 だから、工業社会も男性支配の社会なのである。 工業社会になると、自然と共に生きてきた農耕社会の労働観が変わった。 工業社会における職業としての労働は、常に効率や能率との競争になった。 ただ調理ができるとか、裁縫ができるだけでは、職業労働にはならない。 支払われる金銭とつりあっていなければ、お客も経営者も納得はしない。 そして職業労働にあっては、常により高収入をあげることが期待されているから、より効率よく仕事を消化する必要がある。 たとえば調理についても、芸術的に素晴らしい仕上がりだが、何日もかかったり非常識な高額になっては、職業労働たり得ない。 肉体を使う職人仕事であっても、工業社会においてそれが職業となれば、能率を追及することが要求される。 農耕社会では土地の属性に規制されて、生産労働において労働者間の競争が成立しなかった。 しかし工業社会では、能率の追及が常に競争を生む。 能率の追及は、肉体による集中的な労働からではなく、頭脳による工程の工夫が有効である。 工業社会では肉体的な力が、生産の根底をになっている。 だから工業社会になっても、肉体的な職業労働には、より屈強な肉体をもった者のほうが有利なことは、かわりなかったのである。 歴史の流れは、生産力を向上させるほうへと動くものである。 もし反対に流れたら、増える人口を養うことはできなくなる。 長期間にわたって生産力が低下すると、現存する人口すら養えなくなる。 わが国のそして地球の人口は、時代が下るにしたがって常に増加してきた。 当然のことながら、何時のどんな社会であっても、生産力の向上は至上命令である。 工場生産は、農産物こそ生産できなかったが、それまでの農耕社会の手工業と異なり、物の大量生産には適していた。 それゆえ農耕社会にくらべると工業社会は、自然の拘束から解放されて、社会的な生産力を飛躍的に向上させたのであった。 工業社会初期の正確な資料がないとはいいながら山田雄三氏によると、1887年(明治20)に234,000,000円だった国民所得の総額は、1945年(昭和20)には90億円となり、58年間で約385倍に増えた注-6。 家に付随した農地における労働から、工場という職場での労働への移動は、まさに生産力の向上を指向したものだった。 社会的な生産力の向上は、個人においても収入の増大になってはねかえってくる。 だから誰でもが、農耕社会から工業社会をめざしたのである。 農家は生産組織でもあったので、多くの成人を同居させ得た。 そのため、農村は景気変動の緩衝役をはたした。 初期工業社会は社会体制が脆弱で、各企業は安定した雇用を確保できなかった。 不況で解雇された労働者は、彼らの生家である田舎の農家が養った。 この時代の工場労働者は、農家出身であることが多かったので、工場労働だけではなく農作業もできた。 農耕社会から工業社会への転換期つまり資本主義の成立期には、どこの国でも現在のような労働基準法は整備されておらず、労働者の地位は非常に不安定だった。 そのため、資本家による低賃金・長時間労働の強制がまかりとおった注-7。 しかし、労働者は無限に存在するわけではなく、工場労働者を使い捨てにすることはできない。 だから、どこの国でも徐々に労働環境の整備が行われはじめた。 わが国では、1947年(昭和22)に労働基準法、失業保険制度、児童福祉法、1949年(昭和24)に身体障害者福祉法、1950年(昭和25)に生活保護法、1954年(昭和29)に新厚生年金制度、1961年(昭和36)に国民皆保険制度、1963年(昭和38)に老人福祉法がそれぞれ制定されている。 つまりわが国において、近代的な雇用関係や年金・保険制度が確立されたのは、太平洋戦争に負けた後なのである。 都市において、スラムと呼ばれる貧困者の生活街が形成されるのも、この転換期からである。 工業社会に最も早く突入したイギリスでは、生活環境の悪化が急速に進んだ。 1850年頃のロンドンは、農村から流入する貧困者たちであふれかえり、疫病が流行した。 生活排水や工場排水の流入で、テムズ川は汚濁の極みに達した注-8。 わが国では少し遅れて、1900年頃つまり明治の中期には、同じように大量の貧困者が発生した。 当時、東京には七〇数カ所のスラムがあった。 なかでも下谷万年町、四谷鮫ヶ橋、芝新網町を、三大スラムといった注-9。 わが国のスラムについては、すでに忘れられているが、そこでの生活は、悲惨を極めたという注-10。 イギリスと同様にわが国でも、近代化の過程で多くの人々が没落し、辛酸をなめた歴史があった。 工業社会へと転換したところではどこでも、新しい時代に乗れず、社会の表面から脱落していった人々がいた。 時代の転換期には、弱い者・貧しい者にそのしわ寄せが集中的に現れる。 現在、急速な工業化をはかる東南アジア諸国が、かっての西欧諸国やわが国と同じように、辛い体験をしている。 都市人口の膨張に悩む東南アジア諸国が、スラムの発生、生活環境の悪化、河川の汚濁などに悩まされるという、今ちょうどこの困難な時期にいる。 アジア諸都市の数億の貧しい人々は、路上、橋のたもと、ゴミの山の上、鉄道敷、墓地、排水路、河川敷、湿地、崖下、ビルの屋上、ドヤ、木造家屋密集地区、老朽狭小家屋に住んでいるのである注-11。 |
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