「単家族」の誕生

目  次
はじめに−等価なる男女
第1章 家族構造の変遷
1.農耕社会の属性 2.家庭と仕事の分離 3.有償労働の成立
第2章 家庭内労働の分離
1.家事労働の衰退 2.家事労働と子育て 3.単家族の成立

第1章 家族構造の変遷

3.有償労働の成立

 今日では、仕事をする人間の80パーセント以上が、家から職場にかよう。
家庭と仕事の分離した状態が当たり前になった。
そのため、家庭(=憩い)対職場(=仕事)といった形で、家庭と職場は、あたかも対立する概念であるかのごとくに考えられる。
けれども人間の歴史の中では、家庭と職場の分離は、工業社会になって発生した、ごく最近の出来事である。

 すべての仕事が家庭でなされていた農耕時代、仕事とそれ以外の家庭生活は、どこまでが仕事でどこまでがそうでないか、線が引けないくらいに混交していた。
たとえば農家では、夜なべ仕事として藁をなったりした。
それは明らかに仕事でありながら、その中には家族の団らんや男女の交際など、娯楽的な要素を多分に含んでいた。
また、野良仕事の最中であっても、しばらくその手を休めて小さな子供の相手をする余裕もあった。


 今日いうところの職場労働以外の仕事、つまり家を維持する仕事は、農耕時代であれば、誰かがどんな形でか担っていた。
もちろん農家や商店などにおいても、すべての労働は生産性のある家のためであり、個人のためではなかった。
しかし工業社会において、職場労働に従事する人間はそうはいかなかった。
農家と異なり職場労働者の家は、生産組織ではないから生産性はない。
生産性がない家は、それを維持する仕事をしても、それから収入は発生しなかった。
それゆえに、家を維持する仕事は無償だった。
収入がなければ、どんな家庭でも生活ができないので、誰でも有償労働を優先せざるをえなくなった。
そこで有償労働を担う人間が、次第に重要性を帯びてきたのである。


 仕事が、職場における時間売りの労働へと分化したことは、家で行われていた体を動かすという仕事から、賃金が支払われる労働を抽出させた。
農耕社会では、体を動かすことが、有償か否かは問題にならなかった。
しかし、工業社会では、職場における労働だけを有償として、区別するようになった。
農耕に従事する時代、家の個人には収入はなかったが、家には収入があった。
工場労働に従事するようになると、家に収入はなく、職場労働に従事する個人が収入をもった。
つまり家から外に働きにでた人間だけが、収入を得ることができたのであった。


 農耕社会は自給自足の経済であり、工業社会では商品経済の発生を見たことも、家における労働の変質を促したことは事実である。
しかし、農耕社会の家は消費するだけではなく、生産していた。
それに対して、工業社会の家は生産せず、消費するだけの組織になったのである。
工業社会では、農業従事者ですら、作業場へ通うようになり、自宅で農作業をしなくなっている。
ここでは農家といえども、家族がすむ家は、なにも生産せずに消費しかしていない。
ここが、農耕社会と工業社会の家族で、決定的に変わったところなのである。


 工業社会に入ったといっても、初期の工場は肉体労働に負うところが大きかった。
農耕社会の労働と同様に、工業社会でも男性の強靭な肉体に、工場労働はより適していた。
初期の工場生産に従事するには、腕力に秀でた者が有利だった。
そこでまず男性が工場に雇用された。
この時代、すべての成人労働者が職場に進出したのではない。
農家の次・三男が、家から職場へと進出し始めたのである。
もし長男・戸主も、一緒に工場労働に進出していたら、農業に従事する者がいなくなり、農耕社会が一気に解体してしまった。
工業社会が自立しないうちに農耕社会が解体したら、社会そのものが消滅した。
長男・戸主は、職場労働へとは進出せず、滅亡する時代と運命をともにした。
長男・戸主が農耕社会を支え続けたからこそ、幼かった工業社会は長い助走を続け、やがて軌道に乗れた。
そして、農耕社会の遊撃手である次男・三男たちが職場に進出し、彼らが担った工業社会の労働形態が、やがて時代の主流になったのである。


 職場労働者が、経済的に自立できるようになると、田舎から女性を迎えて新居をかまえた。
農林水産業に従事する人間は、1872年(明治五年)には84パーセントだったのが、1930〇年(昭和五年)には50パーセントまで減った。
そして反対に、工鉱業や商業に従事する人間は、同じ期間に11パーセントから41パーセントに上昇している注-15
ただし農林水産業に従事する実数が減るのは、1960年以降である。
工鉱業や商業といった職場労働に従事する彼らの家庭は、職場労働者本人と妻、そしてその子供たちの二代だけで構成された。
こうした家族形態が核家族と呼ばれ、核家族は工業社会を支える母胎となったのである。


 職場労働が普及し始めた当初は、休日には勤め人の男性も家事労働をして、家の維持に時間をさいた。
しかし、職場における労働が本格的に普及してくると、もはや男性は家の仕事に時間を費やすことがなくなった。
職場における有償労働に従事する男性は、家事労働に時間を使うことは不利になってきた。
そこで次第に、男性の家事労働の典型であった薪割りも肥汲みも、お金を出して誰かに代行してもらうようになった。
それと同じ頃、薪は代替燃料を工場生産が作り出すようになり、お金で買うようになった。
当然のことながら、薪割りはだんだん不要になっていった。
また同時に、肥汲みは水洗便所の普及で不要になった。
わが国は西欧諸国に比べると、いまだ公共下水道の普及率は低い。
しかし、家庭用の簡易浄化槽の普及がそれを補い、水洗便所は地方にも普及した。


 上昇気流にのった工場生産はやがて安定し、時代の主流は工業社会となった。
工業生産は売上を伸ばし、工業従事者の所得は上昇した。
そして膨張し、肥大した工業社会は、農耕社会の本体をも侵食しはじめた。
工業従事者に対して相対的な農業収入の低下によって、もはや、農家の長男・戸主も農業にとどまれなくなった。
商品経済は農村部にも浸透し、農業専従者は現金支出の増大によって、農業収入だけでは生活がなりたたなくなった。
規模の小さな小作農から、徐々に農耕社会から脱落していった。
農家の一員としては生活できなくても、工場や会社へ働きにでれば生活できる。
それが見え始めると、ここで家の規制は、徐々に崩れ始め、家制度が生みだした価値観もきしみだした。
もちろん家の規制がゆるんだことは、家の保護がゆるんだことをも意味する。
それゆえに家からはじき出されて、生きる場を失った生活困窮者も発生した。


 農耕社会の根幹であった自作の農家にあっても、繁忙期こそ長男・戸主も農作業に従事したが、通常は会社や工場へと勤めにでるようになった。
農耕社会の遊撃手であった次・三男に引き続き、長男・戸主も工業社会に組み込まれたのであった。
そして戦後になると農耕社会は、工業社会へとなだれをうって移行していった。
家に残された女性は、三ちゃん農業として知られるように、家事労働とともにかっての主なる仕事であった日々の農作業を、ほそぼそと引き受け続けたのであった。
1993年現在、農業専従者は就労可能人口のうち5.9パーセントしか存在せず、どうひいき目にみても農業はもはや時代の主流ではない注-16


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