認識×6+忘我論   第6−2回
1982年〜「花泥棒」に連載
 
第1回 神・仏・人
第2回 擬制の血縁
第3回 性差を越えて
第4回 約束された価値
第5回 時と共に
第6回 他国を遠望して
第7回 忘 我
   
第6回    他国を遠望して    その2
−具体的な他者−
 1人の人が、個有の体験をとおして体得する認識は、現実そのものである。
認識は痛いとか暑いとかといった、具体的な手応えをもったものの集積である。
生々しい感覚を欠いたところで成立する認識は、ほとんど有効性をもたない。
現実が時間と空間によって特定されるとすれば、空間を越えてひろがっていく人間 関係は、案外に手応えのしっかりしたものである。

 ヨーロッパの戦争映画などを見ると、戦争の趨勢にしたがって、国境をこえて流れて歩く人々の群を見ることがある。
また、平時にあっても、季節労働者として、国境をこえて移動する大量の人々を見たりもする。

 価値観は人に担われるものだから、移動する人々も、ある価値観をもって動いている。
通俗的に表現すれば、人種の混交するヨーロッパ社会では、いくつかの価値観が交流しているはずである。
異人種だからといって、孤立して生活することはできない。

 1つの街程度の、比較的狭い場所に住んでいる人同士が、言葉をかわしたり、物の売買といった交渉がはじまれば、そこに互いの価値観の浸潤がおこる。
友好的な関係ばかりではなく、敵対的な関係も立派な相互認識の手だてである。
むしろ戦争のように、互いの憎しみに支えられる関係は、時をこえて同質であると錯覚する民族意識などより、はるかに具体的である。

 認識は他者に対して、友好的であるか否かは関係のない。
自己が自己であるために、人は認識するのであり、世界平和のために人は認識するのではない。
具体的に人と人がふれあう体験が、人に認識を保障する。

 私たちは観光以外には、なかなか国境を越える体験をもたない。
そのため空間をこえて、認識を広ろげていくことには馴染みがない。
けれど、異った他者と接っすること、いいかえると、人の成長時代に見るすべてのものが、異物が既知になるのと同様の経過で、具体的な自己を作るのである。

 まだ見ぬ他国は、たしかに自己に何の影響を与えない。
そのため、自己に無関係ではある。
けれども、それは山の中で一生を終えてしまう人にとっては、自己をとりまくまく少数の人以外に、関係のある者はいないのと同程度に、無関係であるにすぎない。

 幼児が言語を体得する過程は、つねに他者間にある自己を確認する作業である。
彼(女)にとって認識に有効な他者は、現に自己の前に存在する他者だけである。
次々に現われる異った人が、幼児に次々に新しい体験を強いる。
具体的な接触をもって、その時にはじめて、未知の他者は幼児に具体性をもつ。
それまでの他者は、まだ見ぬ他国である。

 政治的支配の範囲としての国境は、非常に人間的なものであり、人の作為そのものである。
それゆえに国境をこえることは、自己認識にとっては、単に未知なる領域が拡大するだけのことであり、未知なる他人と出合うことにしかすぎない。
他国を知ることは、自己の獲得・形成と同義である。

−自己の変化−
 国境をこえることは政治権力の問題とか、個人ではどうにもできない多くのことがある。
また、それが人を大きく規制するのも事実なのだが、それ自体は単に事象であり、自己にとっては外の事柄である。

 多くの人は、現在の自己を静止的なものと、考える錯覚に陥りやすい。
現在の自己は確たる地保に立っており、そこから物事を判断していると考えがちである。
しかし、現在の自己も、つねに変化しているのであり、新しい物事に出合った後では、以前の自己とは変っているはずである。

 新しい物事にであっても、変わる変化の量が少ないため、自己の信をおく位置は、不動であると考えている場合が多い。
しかし、変化を認めないと、成人後、 人は一生不変であることになる。
自己は不動だという錯誤が、自己の外に価値観が存在する、と考えることを許すのである。

 たしかに認識の瞬間、瞬間では、自己の位置を固定しなければ、判断が下せないかも知れない。
常にフラフラと動く自己を、自意識として抱えてしまうと、人は判断できないと言うかも知れない。

 しかし、時間は止ることがない。
人の意識が固定的で不動のものだとすると、反対に人の成長(退化かも知れないが)はあり得ないことになってしまう。
認識の成長は、子供時代だけのものではなく、成人後もずっと成長し続けているはずである。

 歴史はくり返さないから、正確には同じ出来事はないのだが、同じ出来事にたいして、反対の判断をする例はいくらでもある。
洋食が好きだった人が、和食へ変ることもある。
ある女性を愛していたのが熱がさめてしまったとか、自民党を支持していたのがもう支持できないとか、変節は人の常である。

 新しいことに出あって少しづつ、常にほとんど無自覚のうちに、自己認識は移動し変化している。
一生にわたって、変容する自己であるがゆえに、人は思考できる。
成人すると肉体の成長が止まるので、大人になってからの認識の変化を、成長と呼ばないにすぎない。

−具体的な認識−

 ヒトの認識は、つねに具体から始じまる。
認識が思考の回路に入っても、具体の領域から離れることはない。
具体的でない認識は虚偽である。
ある事柄をはさ んで向い合う人の認識は、とても具体的である。
たとえば、愛し合う二人の男女は、民族や国民といった概念をこえているし、憎しみ合う二人の関係も同様であ る。

 近代戦ではそんなことはないだろうが、戦場でばったり出合った二人の敵味方は、相方に最高の具体的認識を与え続けている。
その場で逃げるか戦うか、または仲良くするかはどうでも良いことである。

 いづれの道を選ぶにしろ、ここでは<時と共に>で述べたような、一層の膜を通した関係ではない。
直接の世界である。
肉体を伴ってかわされる人間関係は、 具体的で手応えがある。
人の認識は、具体的で手応えのあるから、形成されてきたはずである。
認識は、これからもそうであり続けるだろう。

 文字や映像となった加工された情報も、もちろん人の認識に影響を与えはする。
しかし、それはより軽いものでしかない。
認識における情報の重要性は今後大きくなるばかりだろうが、情報は具体的でないので、人はその取り扱いにまだ慣れていない。

 医学や物理学など自然科学の論述が、どこまでいっても具体的であるのは、論をすすめる研究者たちが<約束された価値>を、自覚的に共有しているせいと、研究者たる自己が研究対象と対面する、直接的な対応形式をくずさないからだ。

 自然科学の専門領域に接近するとき、研究者は無意識・無前提的に、自己が研究対象を研究する構造以外にとりようがない。
具体的でない科学はロケットを飛ばせないし、車も走らせることもできない。
なぜなら自然科学は、技術であることが多いからだ。

 それに対して社会科学や哲学の領域では、研究対象のなかに自己も含まれている。
研究者自身も対象化される構造である。
にもかかわらず、いつの間にか研究 対象から、自己がぬけ落ちてしまいやすい。
もちろん社会科学も科学である以上、個人を類としてみてはいる。
しかし、研究者も対象に含まれることは間違いな い。

 たとえば、日本人はああだ、こうだと言っている研究者自身は、一体どこの国の人なのかが、不問にされている例が多い。
優れた社会科学は自己対象化ができているが、自然科学者が人文社会科学の領域にむけて発言すると、自己対象化の訓練ができてないため、 眼をおおいたくなるような抽象的で幼稚な仕儀に陥る。
次に進む