認識×6+忘我論   第6−3回
1982年〜「花泥棒」に連載

第1回 神・仏・人
第2回 擬制の血縁
第3回 性差を越えて
第4回 約束された価値
第5回 時と共に
第6回 他国を遠望して
第7回 忘 我
    
第6回    他国を遠望して    その3
−二重の自己認識−
 人の考えを対象にした領域では、その対象に研究者自体も含まれているはずで、いわば二重の対象化を要求されている。

 地球上には60億の人が生活していると言われるが、1人の人にとってはそれは判らないことである。
統計上の数字としては意味があっても、個人のなかには、それが何程かの意味ももたない。
彼(女)の具体的世界はあくまで日常生活にある。
それは肉親であり、友人であり、職場の人々であり、また、ある時は旅先で出合う人々である。

 人はまだ見ぬ体験を、予測し想像することはできないのであり、過去の同じと思われる経験から類推するにすぎない。
過去の経験から導いた思考が、新しい体験に自らを対応させ、新らたな認識を獲得していく。
だから、時を異なった人とは、直接的な関係を結べないのは当然としても、逆に時を同じく存在する人とは、直接的な関係を結べる可能性が存在する。

 私たちは自己の認識を、固定的と考えやすい。
そのため未知の世界を、認識の可能性の問題として、具体性をもって考えるのは、なかなか馴染めないかも知れない。
しかし少なくとも、国境を固定して考えることは、無意味である。

 日常生活は、けっして私小説的閉鎖社会ではない。
いつでも地球の地面のうえを、移動し得るものである。
また、自己の意志だけでなく、外的条件によって移動せざるを得ない時もある。
だから、地球上の空間的拡大に対して、拒絶症状を訴える必要はまったくない。

 人は同時代に生きる認識契機として、他者とのあいだに障害をおくことは愚かなことだし、また、現実はそうした閉鎖的姿勢を許してはくれない。
死ぬまで変容する自己と、拡大する日常生活領域は、地球上の同時代の認識に暁光を与えてくれる。
      
−価値観の倒立−
 価値観が並立していると考えることは、一見すると相対的寛容さを連想させ、他者との共存を許すものと思えるかも知れない。
しかし、並立するものだと前提してしまうと、人の心理構造へは、逆に絶対的・排他的なかたちで定着してしまう。

 人は自己のもっている価値観を、他者のそれとの常なる検証にさらさざるを得ない。
それが今まで述べてきたところであった。
ここでは一瞬一瞬には、信ずるというかたちをとりつつも、常に決断のくり返しとして自覚されている。

 いろいろな価値観があると言ってしまう時、自他との常なる検証・緊張関係がぬけ落ちてしまい、自己の絶対化(=自己を疑うことを知らない)へと結果する。
それは自己の信ずる価値観の絶対化であり、自己と価値観とが平板的に連らなりつつ、自意識を喪失していく結果となる。
いわばここで人をやめる仕儀に立ち至るのである。

 生身の人が最も大切なのであり、価値観それ自体に意味があるわけではない。
ただ、価値観をもたないと、人は生きることができないという意味で、価値観が問題になっている。
生身の人が、どんな価値観の根底にもすえられているばずで、生身の人間存在を全部的に否定している価値観や社会はない。

 人の外に価値観を考えると、価値観それ自体の自立がおこったように錯覚してしまう。
生身の人から出発したつもりでも、ある時、生身の人を切りはなして、価値観それ自体が声高に叫ばれるとき、私たちは警戒しなければならない。

 歴史を見ると、狂気的と思われる時代は、大てい何やら一つの価値観が声高に表われていたことに気付く。
どんな価値観も必ず生身の人のためであり、その部分を欠いたら、もはや本来の意味での価値観ではない。
自己と他者という認識の構造が、どこまでいっても自覚され続けていないものは、一応疑ってみるべきで ある。

 異常がある時、正常をあばく時もあるけれど、それはあくまで例外である。
具体性から切断された価値観が、人を支配を続けることはできない。

−全的な自己−
 人は今という時間と、ここという空間の交点に存在している。
時はつねに動いていくものだし、空間は人の肉体の立体性を保障している。
世代と性別が、個人の存在の必然性を理由づけるものだとすれば、時間と空間は個人の存在に具体性を与えている。

 認識の理論の追求は、いわば逃げ水を追うようなものだ。
認識を言葉にのせて記述していくのは大変難しい。
もともと言葉というのが、生の感覚を拾えない属性をもっているのだから、それを使って核心に迫ろうとするのは無理でもある。

 日本語の社会が、ギリギリと自己を問いつめていく経験をもたない傾向があるので、現実を直視し難いのも事実である。
しかし、日本語を母語とする自己が考え、行動し、感じるのだから、日本語でなされる認識しか頼るものはない。
感性といい理性というが、そんな区別はない。
感性に支えられない理性はないし、理性に支えられない感性もない。
まるごとの人を対象化する作業も、どうやら峠が見えて来たようである。

 25年後に読み返してみて、第6回までは違和感がなかった。
今でも同じことを書くだろうと思う。
しかし、本章の「他国を遠望する」は、主題こそ同じなが ら、論の運び方は、いまなら大きく違うだろうと思う。
言っていることに違いはないが、当時は筆者のなかで問題が未整理だった。

 本論は、人の認識を、世代と性別、時間と空間といった、縦横の座標軸を設定して考えたものだ。
きわめて観念論的な色彩が強いが、内容は具体的だと思う。 
(2007.08.05)
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