認識×6+忘我論   第4−2回
1982年〜「花泥棒」に連載
 
第1回 神・仏・人
第2回 擬制の血縁
第3回 性差を越えて
第4回 約束された価値
第5回 時と共に
第6回 他国を遠望して
第7回 忘 我
  
第4回    約束された価値   その2
−民芸のたどった道−
 かつて民芸と呼ばれたものが流行ったことがある。
柳宗悦らの提唱した民衆芸術が、ちぢまって民芸と呼ばれたわけだが、日本における価値の消長にとって、この民芸は大変象徴的な運動であった。

 現在でこそ、民芸の勢いは大したものではないが、この運動は浜田庄司やバーナード・リーチ、富本憲吉らの実践的協力をえて、広範囲にその影響を及ぼし た。
特に陶芸における民芸の運動は活発で、その成果は日本民芸館や大原美術館など、現在でも各地でみることができる。

 大量生産的な日常雑器、つまり生活用品にこそ、ほんとうの美があるという柳宗悦らの主張は、当時、とても新鮮な響きをもっていた。

 民芸はそれまでの芸術が、社会の上層部に独占されていたのを解放する力をもった。
そして、誰でもが美しいものに接することができる、といういわば民主主義的結果(?)すら、招来したのであった。
ところが、いままで日常維器・数ものとされて、打ちすてられていた物に<美>を見出して、それを優品として価値を見出す主張は、最初から自家撞着をおこす契機を内蔵していた。

 日常雑器は、それが目的として作られた、日常の用に供されるかぎり、なんの問題はない。
しかし、そうした中に<美>を見つけだそうとするのは不可能だった。
本来、雑器は美しいかどうかとしてではなく、有用性・実用性の対象として作られてきた。

 結果として、雑器が美しい姿をしていても、それはあくまで結果であって、作為する心によって創られた<美>とは無関係である。
たとえば、茶碗にしても布地にしても、包丁や肥桶などと同様に、実用品として存在するにすぎない。
それ等は、安価で丈夫で使い易いといった、いわば生活の基準が優先する世界で製作されたものである。

 雑器を貰いている価値は、<美>などとは全く無縁のものである。
こうした雑器の世界ヘ、<美>という価値を持ち込むことは、物作り自体を変質せざるを得なかった。

 <美>というのは情況なり、物体なりに対する人間の判断(=約束された価値)である。
だから、元来そうした判断の入らない領域にあったものが、美しいものを目ざして制作される時、美しいものを作ろうとする作為の心が、不可避的に現れてきてしまう。

 <美>は実用の世界だけにとどまるのではなく、実用をつきぬけて、<美>それ自体が自立した価値となって作者を追いたてる。
その時、それは必然的に民芸ではありえず、旧来の美術品の世界へと帰ってしまう。
民芸にとどまろうとするかぎり、作者がひたすら実用性に奉仕するときだけ、結果として民芸=民芸的美が作りだされる。

 民芸では、実用性を目ざさないところからは、<美>は生れて来ないことになる。
もっといえば、はじめから(民芸的)美しいものを作ろうと考えた時は、美 しいものは作れない仕儀に陥らざるを得ない。
最初、民芸が自ら美しいとして示した基準に従うと、民芸の美しいものが作れないわけである。

 無作為へあこがれても、一度、美=作為を見てしまった人間が、無作為を追求するのは、逃げ水を追うようなものである。
それゆえに、民芸運動が広範に広がれば広がるほど、自分の首をしめる状態へと、結果していったのである。
これは表現の位相と生活の位相を、同位相においてしまったことの錯誤である。
そして、物自体に<美>を見出してしまう私たちの歴史が、なさせた悲劇でもあった。

−美という観念−
 歴史をさかのぼっていくと、私たちの先祖が中国や朝鮮から、大量の美術品を輸入しているのに出合う。
日本の歴史が文明の移殖の歴史だから、美術品を輸入は当然なのだが、美術品の輸入は特別な現象を引きおこす。

 外国の価値体系にしたがって美術品を輸入し、外国で高価な物を、我が国でも高価な物としているかぎり、特別な現象はおきない。
外国での価値の写しを、日本に構築しようとするかぎりは平和であった。

 外国のものを勉強し大寺院を建築したり、唐物の優品を愛好しているあいだは、まだ主体的行動といった意味での<美>の基準を、自己のものとして確立していない。
この時期は、そっくりの借り物であった。
だから、内外の価値の体系は一致していた。

 中国など外国では<美>の基準を、あくまで人間の作った約束事の世界として設定していた。
整った形、計算された色、使用される状況への配慮……、どれをとっても人間の作為が表にでて、追及されきった形や色をしている。

 <美>は空極の価値の頂点として、存在していた。
そして、<美>の体系は、政治的支配の体系と一致しており、優れたものは高価であり、高価なものは支配階級のみが所持していた。
まちがっても一流品が、貧乏人の手に渡ることはなかった。
そして、最初はもちろん日本でも、外国で価値あるとされるものを、やは り価値があるとして愛でていた。

 外国での価値の序列を、そのまま輸入していたといっても過言ではない。
ところが、ある時、その本国における価値の序列を、逸脱して輸入したものがあっ た。
たとえば天目茶碗は中国でも銘品であったが、当時の唐物目利たちは、それと同等いや時とするとそれ以上に、雑器である井戸茶碗を、銘品として位置付け たのである。

 こうした雑器は、<美>の対象として作られたのではなく、有用性・実用性に奉仕するために作られたものである。
ところが、日本ではそれに<美>を発見し た。
そこから悲劇が始じまった。
<美>を創るなど意識の片すみにもない人が作った物に、<美>を見出してしまってから以降の日本人は、没美意識的作品を 手本として、自分たちの作品を作らざるを得なくなった。

 無作為のものに<美>を見てしまった人間は、作為の作品に対しては、どうしても色を見てしまう。
手本に近づこうとすればするほど、作者の作為がみにく く、媚るようにでてきてしまう。
この時から日本の作者は、美しいものを作るために、美しいものを作ろうとする心をなくすという、転倒した旅に出発したのである。

 今また仏教美術という言語が、信仰の世界を土足で踏み荒らしているように、明治以降もこの轍からぬけだしてはいない。
仏像・仏画は信仰の対象であって、<美>の対象ではない。
信仰をもたない芸術家の作る仏像は、宗教的な生命をもつだろうか。

 ここで民芸がたどった道と、二重うつしになってみえてきたはずである。
私たちは価値を価値自体として、自覚的に認識して、抽象の価値体系を作る歴史をもたなかった。
そうではなく、物自体が価値を体現するかのごとく考えてきた。

 物や事象それ自体から離れた、抽象的な価値の世界を作ることができなかった。
たとえば、どこかに打ち捨てられていた木ベラを洗って銘を付けると、それはもう美となりうる。
木ベラ自体に、美を附与してしまう。
物がおかれた情況に関係なく、絶対的な価値としての<美>が存在すると考えるのではない。

 利休好み、遠洲好み、玄々斎好みなど、と呼ばれるように、何ら洗練されていないものでも、ある時に突然のうちに美の対象となり得るのである。
そのため、いままで我が国には、ある人にとっての美しか存在せず、全体性をもった抽象的な価値としての<美>の基準は、 存在しなかったのである。
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