認識×6+忘我論   第4−3回
1982年〜「花泥棒」に連載
 
第1回 神・仏・人
第2回 擬制の血縁
第3回 性差を越えて
第4回 約束された価値
第5回 時と共に
第6回 他国を遠望して
第7回 忘 我
  
第4回    約束された価値   その3
−機械言語の登場−
 今、やっと私たちは抽象の世界に、歩を踏み入れることができるようになった。
コンピューター言語のように、直接的に物との対応関係をもたない言語が語られるようになった。
物対言語(約束された価値)の関係が、大きく変質してきた。

 言語はふつう音として知覚される。
音の連なりが言語であるが、風の音と口からでる音に、音としての違いはない。
しかし、音と言語は違う。
音として発せら れた言語もどきは、何の意味もない。
それは叫び声や、うなり声としか呼べない。
ヒトが人に移る時に獲得したものは、社会性をもった音としての言語であっ た。

 生後半年の乳児が、偶発的に「マンマ」と発音したところで何の意味はない。
もちろん、発声のくり返しが、結果としての社会的言語へと連らなっていくのだが、この時点では単なる風の音と同じである。

 「マンマ」が食べ物と結びついてはじめて、つまり、社会を構成する基底をくぐってはじめて、人の口から発せられた音は言語と呼べる。
だから、同音の異国語は何の意味もない。
英語の主格を表わすTと、日本語の愛とは、まったく無関係である。
つまり、音が社会性と結びついて、はじめて認識の武器としての言語 と、呼べるのである。

 ところが、言語獲得とその形成は、無意識のうちに行われるため、言語の位相と事物の位相が同体のままになりやすい。
めったなことでは、言語と事物のあいだの距離を、自覚することはなかった。

 何か物を見たとき、人の頭のなかでそれが何であるかを識別するのは、瞬間的にほとんど無意識のうちになされている。
たとえば、茶碗を見たとき、人の頭のなかにある一般の概念として、茶碗なるものに引き寄せて、これは茶碗であると判断している。
ところが、よく考えてみると、茶碗それ自体と茶碗という言語とのあいだには、一義的な対応があるわけではない。
当然のことだが、深い茶碗もあれば浅い茶碗もある。

 茶碗という言語は、茶碗一般をさし示すことはできるが、具体的なそのものとしての茶碗を直接に特定し、表示することはできない。
たとえ茶碗という言語に、赤いとか、大きいといった、たくさんの修飾語をつけても、茶碗そのものを表示することは不可能である。
その逆も同様に不可能であって、茶碗という物自体では、茶碗一般という概念を示すことはできない。

 茶碗と同じ色や形をしていても、茶を飲む用に供さないものを茶碗とは呼ばない。
これを見ても判るように、一つの単語や言語が意味するのは、あくまで物自体ではなく、物から一度抽象された概念である。
<痛い>という単語の時にも述べたが、言語と言語がさし示す物自体のあいだには、実はほとんど架橋できな いくらいの距離がある。

 物自体をいくら並べても、単なる物の羅列に終わる。
茶碗をたくさん並べても、茶碗という言語は、自動的に生まれるわけではない。
そこから意味性を引きだ して、共通項でくくって概念化して、はじめて言語となる可能性が生れる。
物の概念化=抽象化は、人が想像力を使ってするのである。
物自体になにやら意味があるのではなく、むしろ、事物にどういう意味附与するかが問題なのである。

 意味附与される状態を、<約束された価値>と呼ぶことにする。
この<約束された価値>は類的=社会的に約束された価値であり、事物と言語のあいだを埋めるものとして考えられている。
一度きりの約束ではなく、何度も何度も無限に、約束され直され続ける約束として存在する。
この約束とは、もちろん 無意識になされる約束を、含むのは当然である。

 <約束された価値>は、ヒトの想像力(無意識の想像を含む)によって支えられている。
ヒトの想像力は、当人を自殺させることさえできるくらいに、人の全存在を支えている。
そう考えると、<約束された価値>とは、ヒトが人たるゆえんのすべてを、制御するものだと知る。

 人が言語を使用し、思考することが可能なのは、<約束された価値>を無意識のうちに共有しているからである。
もっと言えば、言語が言語たるのも、宗教が宗教たるのも、国家が国家たるのも、すべて意識かつ無意識のうちに、<約束された価値>を共有しているからである。

 一見すると平易な事象や単純な物は、それ自体の属性として言語をもっているように、感じるかもしれない。
しかし、どんな平易なことや物であろうとも、言語は事物から離れてしか存在しえない。
これは茶碗のような名詞にかぎらず、動詞にあっても形容詞にあっても、すべて同じである。

 抽象的な概念を示すときに使う、抽象名詞というのがあるが、事物自体を言語は指示できないという意味では、すべての語が具体性をもたない。
固有名詞は例外のように見えるが、これも程度の差にすぎない。
10歳のAさんと70歳になったAさんでは、別の個体と呼んだほうが良いくらいに、まったくの別人のように見えるだろう。
しかし、人はAさんと呼び続ける。

 コンピュータ言語が登場するまでは、具体的な事物と言語で抽象された世界が、ほとんど二重うつしになって見えていた。
そのため、両者のあいだの距離を計ることができなかっただけである。
それは多分、労働力が不足している社会では、自然は過酷なまでの厳しさでヒトを襲い、観念と事物を切りはなして見ることを、許さなかったことに相当の理由があると思う。

 初期の人類は、農業を覚えた。
農業の世界は、ヒトの土地への具体的働きかけが、直線的に収獲に結びつくものである。
観念的な思考よりも肉体労働がものいう。
農業では人の作為は、観念のフィルターを対象化する巾をもちえなかった。
だからヒトの思考が、具体的な物や直接的な自然との関係、そして肉体労働と いった領域から、離れられなかった。

 ヒトの歴史のほとんどをしめる農業時代は、人の直接的な肉体労働が、いわば最後のすべり止めといった中心的存在としてあった。
その世界では自己の働きか けと、反応は感覚的にもつながっていた。
しかし、今、その距離が感覚的にも、実感できる時代になろうとしている。
機械文明が、言語をはじめとする、人の意識野をやっと撹伴しだした。
機械という暗箱を通ることによって、人の労働は平均化され、<約束された価値>が自覚的に残る。

−実践と教えること−
 スポーツの世界では、結果が順位や時間で表わされるために、優劣の表記はかんたんな場合が多い。
しかし、教えることとなると話は別である。
現役時代に 優秀だった選手が、監督やコーチとしても有能であるかどうかは、ほとんど一致しないとは、最近でこそ言われるようになった。

 明治になって、スポーツは日本に入ってきた。
スポーツは歴史が浅いために、私たちの身についた感覚で、教えることを判断するところまで、倒達してないように思われる。
教えることに関しては、むしろスポーツに近い側面をもつ武道に、同感する部分があるように思う。

 武道はかつて本当に命のやりとりをした。
そして、武道の世界で強者として残ってきたのは、すべて自らが武道者であった。
この時代には、自分は戦わずに、教えるだけの武道者はいなかった。
彼等は挑戦者を倒して、自らの優位性を示してきた。

 武道者とは、とにかく強くなければならなかった。
将来は必ず強くなるだろうが、現在はまだ弱い者が、強い者と戦えば、必ず弱い者が負ける。
武闘は素質や将来性の勝負ではなく、その時点での強弱が勝敗を決めたのだ。
素質や将来性を云々されるのは、スポーツである。

 現在の武道は、命のやりとりをしないので、武道の本質が表面化しない。
もし今でも、本当に命のやりとりをしていれば、強い者が生きのび、弱い者は殺される構造は変わっていない。
そして、幸運に生き残った者をとおして、武道を考えることになる。
そこから抽象されて来るのは経験であり、勝った負けたという事実そのものである。
武道という抽象的なものではなしに、武道者自身の軌跡が表出されたに過ぎない。

 武道者も幼い時期があったはずであり、初心の時代があった。
武術を身につけるためには、教えを受けなければならない。
初心の者は、武道の世界に入ったつ もりでも、実際は師たる武道者に重る手続きをとる。
つまり、師たる武道者の歩んだ道を、追跡する修業へと結果する。
そのため、経験則としての武道者は具体的な存在としてとどまり、武道そのものへとは、なかなか至らなかった。

 師たる武道者も、自ら戦ったので、常に誰よりも強くなければならなかった。
弱い師は途中で殺されていなくなってしまう。
実践と理論が分化せず、師という具体のなかに武道理論を見るかたちとなって、各々の武道が継続してきた。

 武道にかぎらず、私たちが習い事をする場合は、学校を初めほとんど全領域で同じことがいえるだろう。
実践と教えることが未分化な世界では、人から離れて体系立った教科書が生みだされることがない。
技術は直接に人から人へと伝えられる。

 現代では、武道が命のやりとりをやめ、スポーツとなった。
スポーツ化した武道の流行をむかえても、私たちの感覚は師にたいして、武道家もしくは選手として優れている、または優れていたことを期待し続けている。

 教える者が一流の選手でなくても、一流の理論を身につけた、一流のコーチは存在する。
理論と実践は、分離される傾向を見せてはきたけれど、いまだに教える者が、勝ち残った者であるべきだと考えている。
いいかえると無形のものではなく物自体に、価値を見だす気質がしつこく残っている。
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