認識×6+忘我論   第3−2回
1982年〜「花泥棒」に連載

第1回 神・仏・人
第2回 擬制の血縁
第3回 性差を越えて
第4回 約束された価値
第5回 時と共に
第6回 他国を遠望して
第7回 忘 我
 
第3回    性差を越えて   その2
−女解放の原動力−
 一般に歴史をふり返ると、支配構造は生産力と生産関係のうえにのっており、両者の均衡がくずれたときに、新しい社会へと変化するといわれている。
支配とは、単に武力による支配だけでばなく、必ず価値を支配の中核としている。

 支配の思想は、同時に支配される側の思想でもある。
支配されていると被支配者が感じたときは、じつはその社会の寿命が尽きた時であり、もはや支配者は支配者の地位にとどまることはできない。
男支配も同様である。

 今までいつの時代も、支配者は政治的宗教的権威を含めて、圧倒的な力=経済力をもっていた。
その経済力は何によって支えられていたのだろうか。
政治的な支配が、明晰な頭脳によって行こなわれたとしても、経済力の根底は、人間の労働によって支えられてきた。
そして、その労働は、つまるところ頑健な肉体によって保証されていた。

 肉体労働の貴さ、また肉体的表現の最たるものたる武道など、肉体的力強さが支配の価値の根底であった。
男と男のあいだで、腕力の強い者が優れており、経済力もあった。
男社会のなかで、肉体的力強さこそ男の証しであり、力こそ男の属性であるとされてきた。

 支配者個人を見ると、彼はけっして肉体的強者ではないにもかかわらず、支配者も被支配者も共に力強いことに、優位の価値をおいていた。
力強いことこそ素晴らしいことだ、と支配者は吹聴すらしてきた。
たとえば、毎日元気よく働く男と、たまに新奇な言動をするが、しばしば休職する男をくらべた場合、問題なく前者が優れていると見なされるであろう。
しかし、時代は肉体的頑健さ以上のものを見つけてしまった。

 今までの社会、いいかえると男社会のなかで肉体労働や、肉体的頑健さの地位が低下した。
それにかわって頭脳労働や精神労働と呼ばれるものが、優位になってきた。
単純労働はもはや機械が代替し、人力よりも何倍も早く、正確に機械は働くようになってきた。
むしろ、機械は人間が行うより、ずっと力強く、生産物をうみ続ける。

 もはや機械の役割・存在を無視しては、現代社会そのものが成立しない。
そして、男社会のなか全体で、頭脳労働への傾斜が、極端に強くなってきた。
たとえばコンピューターやロボット、宇宙飛行システムの開発は、その最たるものである。
男社会の労働観の変化が、着実に進んだ結果、男自体の位置つけが頑強さから、頭脳の優秀さへと変化してしまったのである。

 それともう一つ、アメリカ合衆国の特殊事情がある。
ベトナム戦争の敗北も、男の力強さの否定の契機となったはずである。
アメリカ兵はベトナム兵よりも、ずっと栄養も豊かで身体も大きかった。
古典的な対の勝負では武力的にも強かったはずだが、そのアメリカ兵がベトナムで敗北したことは、単純な力や腕力の終焉を示してしまった。

 男社会で今まで支配的であった価値感が没落し、男の男たる証しを失ってしまった。
肉体が支えた男の文化の崩壊を、社会一般のこととして、男自身が認めざるを得ない時代にたちいたった。

 日本においても、職人や現場労働者より、管理者や企画者の方が優秀であり、人間的にも優れていると男たち自身が考えはじめている。
職業に貴賎はないといいつつも、肉体労働から得られる対価が、頭脳労働から得られるそれより少ない現代では、男が自らの進路を選ぶ場合、肉体労働を敬遠し、頭脳労働に走りがちなのは事実である。

 かつては学業成績が優秀であっても、貧乏な家に生まれた者は上級学校へ進学せずに、ただちに職業についたものである。
それゆえ、優秀な頭脳(ただし、学業成績がの意味で、人間的な優秀さとは直接関係ないのは当然である)をもった肉体労働者が存在した。

 高学歴社会となり、家の貧富が上級校進学の決定的要素とならなくなった。
誰でもが進学できる現代(アメリカ合衆国では各種奨学金が準備されている)男社会のなかで、男の価値は肉体を離れて、より抽象的なものへとその基準を移してしまった。
肉体的頑健さのみ所有し、性格や頭脳が評価の対象とならない男は、もはや単なる野蛮人・粗暴な人間としか、男が男を評価しないのが現代である。

 ウーマンズ・リブの登場する地ならしは、じつは女によってなされたのではない。
男自身がそんな結果になるとは、考えもせずにやってしまったのである。

 男社会での労働観の変化は、社会を構成するもう一方の主体である女にも、影響を与えずにはおかなかった。
今まで女は、労働の分野において肉体的劣者であるという事実によって、男に対して一段低い地位におかれていた。
女のマラソンやボディービルが流行っても、女がいまだに腕力において肉体的劣者であることは少しも変っていない。

−腕力の無価値化−
 男社会で、男の肉体的腕力がもはや決定的な価値とならなくなったことは、同様に女の劣等性を無化したのである。肉体が支えた文化の崩壊が、じつは男による支配の終焉へと結果するとは、一体誰が予測しえたであろうか。

 唯一どうしても女が男にかなわなかった腕力、つまり肉体的力が男にとっても女にとっても同様に、どちらでもよくなってしまった。腕力不要の今、やっと女開放の幕あけを迎えようとしている。労働における肉体的劣等性のゆえに、女はいままで男に媚をうらざるをえず、男の保護を必要とする立場から離れられなかった。

 女は結婚して、男の庇護下に入らなければ、生きていけなかった。自らを男に売らなければ、女は生きていけなかった。いままで女は男の奴隷だった。腕力無用となった今、女は奴隷としての商品性に拘束されなくなった。

 今まで、女は男に所有されるための商品だった。だから、女は男にとって魅力あるように、自分を飾らなければならなかった。そのために女は、結婚の門前で処女性という持参金や、貞操という預金を男に示して、自らの経済性を確保せざるを得なかった。

 しかし、もはや女は、男との関係で自らの生き方を、決める情況から解放されようとしている。女は女自身の好みによって、自分の生き方を決めれば良い時代にたちいたっている。
 女は男を頼らなくても生きていける。女は男に合わせなくても、生きていける。男の価値観を自己存在の規範としなくても良い。女は自分の責任において、自己の能力や生き方を決めうる時代に、いま立っている。

 時代は女に味方した。ピル<経口避妊薬>の登湯である。100%確実に、女のみの意志で、男に気付かれずに、避妊が可能になった最初の物、それがピルである。いままで、産む性としての女は、自己の意志とは無関係に妊娠してしまう恐れをもち、その上、自己の意志だけでは妊娠できない、という悲劇的な立場にあった。しかし、少なくとも前者は、自己の意志下におくことが可能になった。

 日本においてピルは公認されていないが、それに代って少々乱暴ではあったが、人工妊娠中絶の合法化がピルの役割をはたした。1948年7月に成立した優性保護法は、世界の人類史上画期的な法律であった。成立当時は国際的批難の的となったが、翌年の一部改正をへて中絶の合法化をなしとげた。

 最初は、人口問題に対処するために成立したこの法律は、その立法精神とはまったく関係なく、結果として出産を女の意志のもとにおいた。(ピルを使っての避妊と異り、中絶は一度できた生命を断つのであるから、また別の重大な問題を生むことになるのだが、本論の文脈から外れるので言及しない)産む性として女の手になかった妊娠・出産が、半分だけれど女の手に入ったのは、女の解放にとって大きな跳躍台となった。

 生命科学の進歩は、試験管ベイビーなど男の意志をこえて、女の肉体のみで出産できる情況を真近に予見している。生殖に卵子が絶体不可欠であっても、精子は必ずしも必要としないある種の動物の例は、何やら暗示的ですらある。
 自立した、もしくは自立しようとしている女にとって、自分の人生は自分で決めるものである。そして、自分で自分を養っていくのは、きわめて当然である。

−女の自立−
 自立の象徴的表現である男女関係には、女の自立が集約的に表現されている。自分が望みさえすれば、結婚するし、離婚もするし、同棲もする。また、独身でいることもある、というように自由な男女関係をもつようになる。自分が気に入った相手となら、どんな程度の関係を結ぶかは、まったく本人の自由意志ということになった。

 経済力などの世間的条件は、まったく無視して男女関係が成立しやすくなる。男と女がより親密な関係を持続するために、結婚という形を前堤とせねばならない、などという時代錯誤は、おそらく存在しなくなるだろう。男も女も、その相手と一緒に生活するのが、楽しいから同居するのである。

 強いられた性差による、所有・被所有という形での結婚は、減少していくだろう。今まで女の能力は、直接的には発揮することを許されずにきた。常に男の文化と同質のものとしてしか、表現されることを許されなかった。しかし、解放された女にとって、自己は女として直接表現せざるを得ない。

 私たちは男の文化と一緒に、女の文化ももてる時代に入ろうとしている。女も自立を迫られるので、今後、女のノイローゼや、女の犯罪も増えるかも知れない。孤独に耐えられない女が生れるかも知れない。しかし、時代は生物的な男女差のみを認め、それ以外の差は社会的な差つまり、強いられた性差によるものだ、と認めてしまった。今や女劣等の神話がくずれようとしている。

 変革斯にはいつもそうなのだが、昨日まで脚光をあびていた人が没落し、それまで見むきもされなかった、いや負の存在とさえ言われた人が歴史の正面へ登場してくる。男の文化に対抗して、女の文化を謳うウーマンズ・リブは、革命なのである。

 ウーマンズ・リブという革命は、政治権力をめぐるものではないけれども、男の文化と女の文化のあいだでの革命なのだ。今まで男が作ってきた男社会のなかで、優位な価値が崩れている。そして、新しい価値を生みだす試行錯誤が、さまざまに行なわれている。もちろん、まだ定式はできていないし、何が定番として生まれるかは不明である。

 しかし、その主体はもう決まっている。女である。それも結婚できない女である。裕富でない女である。職業についている女である。失う何物も持っていない女である。

 今までの結婚は、女に富と安定をもたらした。男は男であるというだけで、すでに失うものをたくさん持ってしまった。今の男社会で、正の価値列にならぶ者は、男であろうと女であろうとウーマンズ・リブを理解できない。

 ウーマンズ・リブはまったく新しい運動なのだ。女の幸せは、受動的に男から与えられるものではなく、女自身が女の文化として築くものである。女の幸せを男社会のなかにみつけようとするいかなる試みも、歴史に逆行するものとして指弾されるだろう。今の男社会で失う何物をも持たない女たちこそ、次の歴史を作る担い手であり、革命の主体なのである。

 いつの時代でも、また、どんな革命でも真の栄光は、先頭を歩む者のうえに輝きはする。しかし、その果実を手にすることはなく、二番目を歩く狡猾な者に横取りされる宿命にある。そうはいっても、時代の歯車を逆にまわすことは、誰にもできはしない。今、男たる私も偉大な文化革命の随伴者として、歴史に同席できる幸せを感謝したいと思う

参考 なぜく女性神話〉の崩壊なのか? 著 鹿追義彦

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