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欧米では本人の目の前で、この子は養子ですよと平気で他人にいうらしい。 しかし、血のつながりを大切にする我が国では、養子である事実を、ひた隠しに隠そうとする。 たしかに血縁に対する信仰は強い。 現在の法体系は民法を始めとして、すべて血縁の親子に基盤を置いて成立している。 刑法ですら、廃止はされたがつい最近まで尊属殺人罪があったし、親族間の犯罪の特例等は今でもある。 つまり、血の論理と呼べるものが、貰いているのには変わりがない。 血縁信仰の強い我が国で、赤ちやん取替え事件がおきたのは、本人たちには非常な衝撃であったことだろう。 その心痛は充分に察することができる。 しかし、血縁による親子関係が、何かしら必然性のあるものだとしたら、なぜ取替え事件がおきてしまったのだろうか。 赤ちゃんを渡されたその場で、なぜ我が子ではないと、気がつかなかったのだろうか。 私たちの社会は、血縁の支配する世界だとよく聞くが、はたして血縁の支配は何に基いているのだろうか。 事実としての血縁には、一体どういう意味があるのだろうか。 私たちは、血縁に執着するといわれるが、血縁がなくても親子は親子たりうるのではないか。 この事件は血縁幻想にたいして、一つのクサビを打ち込んだように思える。 赤ちゃん取替え事件は、取替えてしまったが、すぐに気がついて訂正されたのではない。 親たちは看護婦さんから子供を手渡されたとき、自然とごく平常の気持で、自分たちの子供として、愛情をもって対応してきただろう。 間違えた子供であっても、自分たちの血のつながった子供として、何年にもわたって愛情を注いで育ててきた。 こうした事情を考えると、新生児を見ただけで、自分の血縁の子かどうか判断するのはできない、とこの事件は物語っていると思う。 赤ちゃんを取替えてしまうような誤りは、非常に少ないから幸運なのだが、この事件が語るのは、たとえ誤って渡されても、誤りを自動的に感知したり訂正する感性を、親はもっていないということだろう。 取替えられた赤ちゃんにたいして、親たちは自分たちと血のつながった子供だ、と心から思っているだろう。 ところで、自分たちの子供だと思うことが、愛情を生むきっかけとなったとすれば、他人の子供でも自分の子供だと錯覚できれば、愛情が生まれることになる。 すると、男女のあいだに、赤ちゃんができたという事実が大切なのであって、赤ちゃんが本人たちの血縁の子かどうかは、愛情の発生にとっては問題ではないことになる。 看護婦さんから、これがあなたの赤ちゃんですよと渡されると、自然と愛情がわいてくる。 その赤ちゃんが笑ったりすれば、ああやはり俺の子だ、私の子だと思うのが普通のはずである。 男性にとっては、自分の子という実感はわかないかもしれないが、まさか産院で取替えられているとは、想像だにしない。 1才や2才では親に似ていても、似ていなくても、大きな問題にはならない。 まして、生後一週間位の赤ちやんに、父親似だとか母親似だとか言っても、なんの意味もない。 親に似ていなくても、充分に愛情がわいてくる。 ここで注意すべきは、親子の愛情というが、親が子に注ぐ愛情であって、子が親に注ぐ愛情ではないことだ。 生まれたばかりの赤ちゃんは、誰が親であるか判るはずもなく、ただ自分に乳を含ませてくれるのを待つだけだ。 そのため、親子の愛情とは、第一義的には親が子供にたいして抱く感情である。 ここで一つの結論にたどりつく。 今まで親子関係とは、事実としての血縁のある関係を考えてきたが、どうもそうではないようだ。 血縁らしきものが重要らしいが、血縁は事実である必要はなく、血縁があると思えれば、親の愛情はわくもののようだ。 事実ではなく、事実と思えるものが基礎になっているとき、そうした関係を擬制の関係と呼ぶ。 すると赤ちゃん取替え事件から、結論付けるべき親子関係とは、疑制の血縁関係であるといっていいだろう。 真実が見えばじめて来た。 人間の愛情を代表とする精神的な作用は、一見すると事実関係のうえに、直接に成り立っているように見えるが、本当は事実関係それ自体ではなく、事実から一度抽象された結果のうえに成り立っている。 親の愛情とは、抽象された擬制の血縁が支えていると言っていい。 事実ではない血縁であっても、親が血縁があると思えれば、子供にたいする感情として、血縁の愛情とまったく同じ感情がわく。 多くは事実と抽象された結果が同じであるから、その間隙を垣間見ることはできない。 しかし、赤ちゃん取替え事件のような、不幸な場面にであうと、その間隙は橋をわたすことができないないくらいに、大きいことがわかる。 差しだされた赤ちゃんにたいして、自分の子供だと自然に愛情がわくのは、産院制度にのって無意識のうちに自分の子だ、と想像しているからである。 この想像力が、事実と事実から抽象された結果を、つないでいる鍵である。 出産した男女にとって、新生児が血縁的に我が子でなければ愛情がわかないとしたら、むしろことは重大である。 血縁という事実が、愛情を保証するとしたら、養子には愛情はわかないし、里子にも愛情がわかないことになってしまう。 もちろんのこと親なし子には、誰も愛情が注げないことになってしまう。 血縁を科学的に証明することは、いままでほ不可能だったわけだし、現在でも、血縁関係を否定することはできるけれども、肯定的に確定することはできない。 そのうえ取替えられても、それに気付きさえしなければ、現実の親子関係には何の不都合もない。 こうした事情を考えると、血縁というのは親子の保証としては、怪しげな事実であると思い知る。 血縁という事実のうえに、人間の精神作用が直結的にのっている、と考えることはできない。 ヒトという種の保存からみて、親子=世代関係は必ず存在するし、世代交代は肯定的に仕組まれているばずである。 でなければ種としてのヒトは減びてしまう。 もし、世代関係を血縁が支えていると考えると、現実の社会には、それから逸脱する事項がありすぎる。 養子にたいして、愛情をもって育てるのも実際には可能だし、血縁がない人間のあいだでも愛情は生まれうる。 血縁のある者同士のセックスを近親相姦と呼ぶが、ふつうは血縁が近親相姦を防ぐように思われる。 事実としての血縁が、親子関係を決めるとすれば、近親相姦がおきることは絶体にないはずである。 しかし、血縁の親子間でもセックスは可能であり、近親相姦もなくはないらしい。 事実としての血縁は、けっして人間関係を拘束しない。 事実としての血縁に、直接的な意味があるのではなく、事実としての血縁から抽象された価値に意味がある。 事実としての血縁が、次世代を育てる愛情を生むのではなく、社会性を背負った親が、抽象された価値を背負って、次世代に愛情を注ぎ育てる。 いいかえると、社会の価値感としての抽象された結果=関係性が、愛情というかたちで発揮されるのであって、むしろ、血縁は偶然の一致にすぎない。 親の子捨てや子殺しがあるのは、親子を血縁という生物的な事実が決定しているのではなく、社会一般を支配する価値感が、親たちを支配しているからである。 社会の価値観が親たちを支配しているから、親たちの行動はさまざまに表れるのであり、反対に血縁がなくても愛情をもった子育てが可能なのである。 生物的な事実から、直接に精神作用が発生するとすれば、結果は必ず一様に表われるはずである。 そうならずに多様な現実が生じるのは、事実と精神活動のあいだに想像力という、一枚のフィルターが存在するからである。 人間の愛情とか精神作用といった領域では、むしろ生物的な事実はどちらでもよく、そのフィルターのありようが意味をもっている。 しかし、血縁的親子のあいだに、ある遺伝的形質はもちろん伝わるし、親子がどことなく似ているのも事実である。 肉体的な特徴だけではなく、喋り方や仕草なども似ていて、驚かされることもしばしばである。 血を分けた我が子だからかわいいし、我が子ゆえにワガママもきくし、また反対にワガママもできる。 でも、これが他人の子なら、多少の悪事やいたずらにも眼をつむって叱りはしないし、また、ワガママも許さない。 血は水より濃いのだ、という反論もあるだろう。 信頼できるのは、愛情といった精神作用ではなく、血縁という事実なのだ、と考える人々もいるに違いない。 戦乱の中国では、王朝がたおされると、その王朝の血を引く者は、子々孫々にいたるまで、徹底して殺してしまう習慣があった。 旧王朝の血縁をひく者が、何年か後に反旗を翻すこと封じるため、皆殺しをしたに違いない。 これなどは血縁信仰の最たるものだろう。 けれども、私たちの現実生活では、生みの親をたずねて三千里などという話は聞かない。 いま育ててもらっている親を、本当の親だと信じているはずである。 岩壁の母も、変りはてた息子の遺骨をさしだされて、これがあなたの息子だと言われれば、悲しくも納得してしまうだろう。 われわれは親子共々こうした精神構造に、共感を覚えるはずである。 親子について、遺伝的事実があることを事実として認めはするが、それが、現実の親子の関係のなかで何だというのだろうか。 たしかに遺伝的親子と現実的親子が、一致する場合がほとんどだから、遺伝的親子を正常なものと考えてしまう。 しかし、それは間違いである。 我が子こそ可愛いと、俺の血をひいているから可愛い、私のお腹を痛めた子だから可愛いとのあいだには、じつは小さくはない違いがある。 ふつうの親なら、誰でももっている子供が可愛いという意識は、事実としての血縁から直接に発生しているわけではない。 しかし、事実としての血縁から、直接に発生しているかのような錯覚を、生みだすところに問題の核心はある。 親が子を思う気持ち、いいかえれば、これがおまえの子だといわれたときに、自然とわいてくる愛情は社会的な規範にのったものである。 それを生物的事実である血縁に、じかにのっていると考えるところには、人間の精神活動への不信が生じる。 それは、遺伝的形質であるがゆえに不可変のもの、つまり、親子は人間の意志では逆らうことのできないものとする、歪んだ発想である。 現在までは子を育ててきたのは、血縁であるか否かを問わずに、親である場合が多かったのだが、その時に、血縁に関係の基礎を置くか否かは、重大な問題をはらんでいる。 親が子を思う肉親の情とか、血縁的親子関係を無条件に是とする精神構造は、他人を愛するという作為の心を排除してしまう。 いままで親子の愛情は、血縁関係のうえに直接に成立する、と教えられてきた。 しかし、じつはそうではない。 社会が大切にする血縁とは擬制であって、事実それ自体ではない。 戦前の産めよ、ふやせよの時代には、育児は母性本能などといわれたが、時代の思想が事実のうえに、直接に親子関係を成立させる必要を感じていたために、擬制の血縁信仰を作りだしたのである。 親子関係を血縁に限定していく考え方は、それを個人の肉体へと追いこむ。 血縁という事実は、常に個人の肉体によって担われて、個人から個人へと直接に結ばれる。 肉体に担われた血縁には、社会性の入りようがない。 現実の社会では、事実をもとにした価値の体系が生れる。 親子の問題にしても、血縁の事実で語るかぎり、親子の関係はいつも肉体の領域=具体の世界にとどまらざるをえない。 しかし真実は、事実としての血縁の親子関係ではなく、擬制の血縁が親子関係を保証する。 だから、じつは個人が一度社会のなかへでてから、他者という他人と連らなることができるはずである。 血縁の事実にこだわるかぎり、私たちは他人の痛みを共有できない。 事実としての血縁には社会性は生じないが、親子関係は社会的なものである。 血縁が擬制であると知ったとき、われわれは社会へと解放される。 今までは何かの理由で、愛情は血縁によると言われてきた。 しかし、事実と愛情のあいだには、もう1つのフィルターがあって、愛情と事実は直接的にはつながっていない。 子を生むのは一対の男女という個人であるが、子を育てるのは個人ではなく社会である。 言語を背景とした価値の体系としての社会が、親をとおして子供に対するのである。 社会性を欠いたところで、子供が育つわけはない。 | |||
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