認識×6+忘我論   第2−2回
1982年〜「花泥棒」に連載
 
第1回 神・仏・人
第2回 擬制の血縁
第3回 性差を越えて
第4回 約束された価値
第5回 時と共に
第6回 他国を遠望して
第7回 忘 我
  
第2回   擬制の血縁   その2
−血縁とは−
 欧米では本人の目の前で、この子は養子ですよと平気で他人にいうらしい。
しかし、血のつながりを大切にする我が国では、養子である事実を、ひた隠しに隠そうとする。

 たしかに血縁に対する信仰は強い。
現在の法体系は民法を始めとして、すべて血縁の親子に基盤を置いて成立している。
刑法ですら、廃止はされたがつい最近まで尊属殺人罪があったし、親族間の犯罪の特例等は今でもある。
つまり、血の論理と呼べるものが、貰いているのには変わりがない。

 血縁信仰の強い我が国で、赤ちやん取替え事件がおきたのは、本人たちには非常な衝撃であったことだろう。
その心痛は充分に察することができる。

 しかし、血縁による親子関係が、何かしら必然性のあるものだとしたら、なぜ取替え事件がおきてしまったのだろうか。
赤ちゃんを渡されたその場で、なぜ我が子ではないと、気がつかなかったのだろうか。

 私たちの社会は、血縁の支配する世界だとよく聞くが、はたして血縁の支配は何に基いているのだろうか。
事実としての血縁には、一体どういう意味があるのだろうか。
私たちは、血縁に執着するといわれるが、血縁がなくても親子は親子たりうるのではないか。
この事件は血縁幻想にたいして、一つのクサビを打ち込んだように思える。

 赤ちゃん取替え事件は、取替えてしまったが、すぐに気がついて訂正されたのではない。
親たちは看護婦さんから子供を手渡されたとき、自然とごく平常の気持で、自分たちの子供として、愛情をもって対応してきただろう。
間違えた子供であっても、自分たちの血のつながった子供として、何年にもわたって愛情を注いで育ててきた。
こうした事情を考えると、新生児を見ただけで、自分の血縁の子かどうか判断するのはできない、とこの事件は物語っていると思う。

 赤ちゃんを取替えてしまうような誤りは、非常に少ないから幸運なのだが、この事件が語るのは、たとえ誤って渡されても、誤りを自動的に感知したり訂正する感性を、親はもっていないということだろう。

 取替えられた赤ちゃんにたいして、親たちは自分たちと血のつながった子供だ、と心から思っているだろう。
ところで、自分たちの子供だと思うことが、愛情を生むきっかけとなったとすれば、他人の子供でも自分の子供だと錯覚できれば、愛情が生まれることになる。
すると、男女のあいだに、赤ちゃんができたという事実が大切なのであって、赤ちゃんが本人たちの血縁の子かどうかは、愛情の発生にとっては問題ではないことになる。

 看護婦さんから、これがあなたの赤ちゃんですよと渡されると、自然と愛情がわいてくる。
その赤ちゃんが笑ったりすれば、ああやはり俺の子だ、私の子だと思うのが普通のはずである。

 男性にとっては、自分の子という実感はわかないかもしれないが、まさか産院で取替えられているとは、想像だにしない。
1才や2才では親に似ていても、似ていなくても、大きな問題にはならない。
まして、生後一週間位の赤ちやんに、父親似だとか母親似だとか言っても、なんの意味もない。
親に似ていなくても、充分に愛情がわいてくる。

 ここで注意すべきは、親子の愛情というが、親が子に注ぐ愛情であって、子が親に注ぐ愛情ではないことだ。
生まれたばかりの赤ちゃんは、誰が親であるか判るはずもなく、ただ自分に乳を含ませてくれるのを待つだけだ。
そのため、親子の愛情とは、第一義的には親が子供にたいして抱く感情である。

 ここで一つの結論にたどりつく。
今まで親子関係とは、事実としての血縁のある関係を考えてきたが、どうもそうではないようだ。
血縁らしきものが重要らしいが、血縁は事実である必要はなく、血縁があると思えれば、親の愛情はわくもののようだ。

 事実ではなく、事実と思えるものが基礎になっているとき、そうした関係を擬制の関係と呼ぶ。
すると赤ちゃん取替え事件から、結論付けるべき親子関係とは、疑制の血縁関係であるといっていいだろう。

 真実が見えばじめて来た。
人間の愛情を代表とする精神的な作用は、一見すると事実関係のうえに、直接に成り立っているように見えるが、本当は事実関係それ自体ではなく、事実から一度抽象された結果のうえに成り立っている。
親の愛情とは、抽象された擬制の血縁が支えていると言っていい。

 事実ではない血縁であっても、親が血縁があると思えれば、子供にたいする感情として、血縁の愛情とまったく同じ感情がわく。
多くは事実と抽象された結果が同じであるから、その間隙を垣間見ることはできない。
しかし、赤ちゃん取替え事件のような、不幸な場面にであうと、その間隙は橋をわたすことができないないくらいに、大きいことがわかる。

 差しだされた赤ちゃんにたいして、自分の子供だと自然に愛情がわくのは、産院制度にのって無意識のうちに自分の子だ、と想像しているからである。
この想像力が、事実と事実から抽象された結果を、つないでいる鍵である。

 出産した男女にとって、新生児が血縁的に我が子でなければ愛情がわかないとしたら、むしろことは重大である。
血縁という事実が、愛情を保証するとしたら、養子には愛情はわかないし、里子にも愛情がわかないことになってしまう。
もちろんのこと親なし子には、誰も愛情が注げないことになってしまう。

 血縁を科学的に証明することは、いままでほ不可能だったわけだし、現在でも、血縁関係を否定することはできるけれども、肯定的に確定することはできない。
そのうえ取替えられても、それに気付きさえしなければ、現実の親子関係には何の不都合もない。
こうした事情を考えると、血縁というのは親子の保証としては、怪しげな事実であると思い知る。

 血縁という事実のうえに、人間の精神作用が直結的にのっている、と考えることはできない。
ヒトという種の保存からみて、親子=世代関係は必ず存在するし、世代交代は肯定的に仕組まれているばずである。
でなければ種としてのヒトは減びてしまう。

 もし、世代関係を血縁が支えていると考えると、現実の社会には、それから逸脱する事項がありすぎる。
養子にたいして、愛情をもって育てるのも実際には可能だし、血縁がない人間のあいだでも愛情は生まれうる。

 血縁のある者同士のセックスを近親相姦と呼ぶが、ふつうは血縁が近親相姦を防ぐように思われる。
事実としての血縁が、親子関係を決めるとすれば、近親相姦がおきることは絶体にないはずである。
しかし、血縁の親子間でもセックスは可能であり、近親相姦もなくはないらしい。
事実としての血縁は、けっして人間関係を拘束しない。

 事実としての血縁に、直接的な意味があるのではなく、事実としての血縁から抽象された価値に意味がある。
事実としての血縁が、次世代を育てる愛情を生むのではなく、社会性を背負った親が、抽象された価値を背負って、次世代に愛情を注ぎ育てる。
いいかえると、社会の価値感としての抽象された結果=関係性が、愛情というかたちで発揮されるのであって、むしろ、血縁は偶然の一致にすぎない。

 親の子捨てや子殺しがあるのは、親子を血縁という生物的な事実が決定しているのではなく、社会一般を支配する価値感が、親たちを支配しているからである。
社会の価値観が親たちを支配しているから、親たちの行動はさまざまに表れるのであり、反対に血縁がなくても愛情をもった子育てが可能なのである。

 生物的な事実から、直接に精神作用が発生するとすれば、結果は必ず一様に表われるはずである。
そうならずに多様な現実が生じるのは、事実と精神活動のあいだに想像力という、一枚のフィルターが存在するからである。
人間の愛情とか精神作用といった領域では、むしろ生物的な事実はどちらでもよく、そのフィルターのありようが意味をもっている。

 しかし、血縁的親子のあいだに、ある遺伝的形質はもちろん伝わるし、親子がどことなく似ているのも事実である。
肉体的な特徴だけではなく、喋り方や仕草なども似ていて、驚かされることもしばしばである。

 血を分けた我が子だからかわいいし、我が子ゆえにワガママもきくし、また反対にワガママもできる。
でも、これが他人の子なら、多少の悪事やいたずらにも眼をつむって叱りはしないし、また、ワガママも許さない。
血は水より濃いのだ、という反論もあるだろう。
信頼できるのは、愛情といった精神作用ではなく、血縁という事実なのだ、と考える人々もいるに違いない。

 戦乱の中国では、王朝がたおされると、その王朝の血を引く者は、子々孫々にいたるまで、徹底して殺してしまう習慣があった。
旧王朝の血縁をひく者が、何年か後に反旗を翻すこと封じるため、皆殺しをしたに違いない。
これなどは血縁信仰の最たるものだろう。
けれども、私たちの現実生活では、生みの親をたずねて三千里などという話は聞かない。
いま育ててもらっている親を、本当の親だと信じているはずである。

 岩壁の母も、変りはてた息子の遺骨をさしだされて、これがあなたの息子だと言われれば、悲しくも納得してしまうだろう。
われわれは親子共々こうした精神構造に、共感を覚えるはずである。

 親子について、遺伝的事実があることを事実として認めはするが、それが、現実の親子の関係のなかで何だというのだろうか。
たしかに遺伝的親子と現実的親子が、一致する場合がほとんどだから、遺伝的親子を正常なものと考えてしまう。
しかし、それは間違いである。

 我が子こそ可愛いと、俺の血をひいているから可愛い、私のお腹を痛めた子だから可愛いとのあいだには、じつは小さくはない違いがある。
ふつうの親なら、誰でももっている子供が可愛いという意識は、事実としての血縁から直接に発生しているわけではない。
しかし、事実としての血縁から、直接に発生しているかのような錯覚を、生みだすところに問題の核心はある。

 親が子を思う気持ち、いいかえれば、これがおまえの子だといわれたときに、自然とわいてくる愛情は社会的な規範にのったものである。
それを生物的事実である血縁に、じかにのっていると考えるところには、人間の精神活動への不信が生じる。
それは、遺伝的形質であるがゆえに不可変のもの、つまり、親子は人間の意志では逆らうことのできないものとする、歪んだ発想である。

 現在までは子を育ててきたのは、血縁であるか否かを問わずに、親である場合が多かったのだが、その時に、血縁に関係の基礎を置くか否かは、重大な問題をはらんでいる。

 親が子を思う肉親の情とか、血縁的親子関係を無条件に是とする精神構造は、他人を愛するという作為の心を排除してしまう。
いままで親子の愛情は、血縁関係のうえに直接に成立する、と教えられてきた。
しかし、じつはそうではない。

 社会が大切にする血縁とは擬制であって、事実それ自体ではない。
戦前の産めよ、ふやせよの時代には、育児は母性本能などといわれたが、時代の思想が事実のうえに、直接に親子関係を成立させる必要を感じていたために、擬制の血縁信仰を作りだしたのである。

 親子関係を血縁に限定していく考え方は、それを個人の肉体へと追いこむ。
血縁という事実は、常に個人の肉体によって担われて、個人から個人へと直接に結ばれる。
肉体に担われた血縁には、社会性の入りようがない。

 現実の社会では、事実をもとにした価値の体系が生れる。
親子の問題にしても、血縁の事実で語るかぎり、親子の関係はいつも肉体の領域=具体の世界にとどまらざるをえない。
しかし真実は、事実としての血縁の親子関係ではなく、擬制の血縁が親子関係を保証する。
だから、じつは個人が一度社会のなかへでてから、他者という他人と連らなることができるはずである。

 血縁の事実にこだわるかぎり、私たちは他人の痛みを共有できない。
事実としての血縁には社会性は生じないが、親子関係は社会的なものである。
血縁が擬制であると知ったとき、われわれは社会へと解放される。

 今までは何かの理由で、愛情は血縁によると言われてきた。
しかし、事実と愛情のあいだには、もう1つのフィルターがあって、愛情と事実は直接的にはつながっていない。
子を生むのは一対の男女という個人であるが、子を育てるのは個人ではなく社会である。
言語を背景とした価値の体系としての社会が、親をとおして子供に対するのである。
社会性を欠いたところで、子供が育つわけはない。
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