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取替えられた他人の赤ちゃんにも、充分愛情がわくような動物として、人はつくられている。 血縁の事実にのみ拘泥し、事実と意識のあいだにある想像力を無視することは、ヒトの人たるゆえんを放棄することである。 この想像力は、もちろん無意識のうちに事実と意識をつなぐかけ橋として機能するのだが、前回述べたように、すべての領域で自己と他者のあいだをつないでいるのも、この想像力である。 自己があってする意識された主体による想像と、無意識におこなわれるかけ橋としての想像とは、別のものではあある。 しかし、両者は連続している。右と左は違うが、どこからが右で、どこからが左であると、線引きして区分けするのが困難なのと同様に、意識と無意識は連続している。 そのため、両者ともに想像力と呼ばざるをえない。 事実に拘束されて考えるかぎり、私たちは常に個人の領域にとどまり、社会=世界を手にすることはできない。 想像力によって事実と精神活動を切り離し、私たちの愛情や精神作用は、擬制のうえにこそ成立させうる、と認識するとき、ヒトは人たる地平に立ちうるのである。 −追記− 上記までは、1982年に書いたものである。 その後、情報社会の進展をみると、本論の正しさが深まってきたように感じる。 詳しくは「核家族から単家族へ」を読んで欲しいが、以下に本論後をかんたんに記す。 血縁を重視するのは、大家族だと思いがちだが、じつは違う。 血縁を大事にした家族は、言うところの核家族だった。 大家族は家が生産組織であり、生産組織からはじき出されてしまうことは、明日からの生活が立ちいかないことだった。 だから誰でもが、家に属さないと生きていけなかった。 そのため、血縁という事実よりも、家を存続させることが大切だった。 そのうえ、産業は農業が主だったので、家は村落共同体の支配に従わなければ、存続することはできない。 大家族では、血縁の子供が生まれなければ、養子をむかえたし、血縁の子供のできが悪ければ、やはり養子をとった。 反対に血縁の子供が多すぎれば、ほかの家に里子にだすことになった。 いずれも家の生産性が、人間の生き方を決めたから、血縁であるかよりも、具体としての子供を重視した。 つまり大家族では、擬制の血縁など登場する余地はなかったのだ。 核家族になると、家は生産組織ではなくなった。 なぜ、生産組織ではない家に、人々が一緒に暮らしたかといえば、稼ぎのある人間は成人の男性だけだったからだ。 都市にうまれた核家族には、女性も働く場だった田や畑はない。 そのうえ、女性を受けいれる職場はなかった。 大家族の時代には、男女はともに田や畑で働く同僚だった。 そのため、男女間には労働が与える連帯感があった。 しかし核家族では、男性は会社での労働、女性は家事労働と、男女の役割がまったく違ってしまった。 もはや男女は、同質の労働に従事する同僚ではない。 養う男性に養われる女性、この男女を結びつけ続けたのは、セックスだけになった。 大家族では、家が村落共同体に属したので、村落共同体の掟が家族を拘束した。 村落共同体の労働力は、最低限のものが必要である。 村の耕作面積は決まっているので、そこを耕す人間の頭数も、一定の人数が必要だった。 そこで労働力としての頭数を、確保する必要があった。 赤松啓介の「非常民の民俗文化」によれば、労働力を確保するために、産む者つまり女性のセックスは、夫の独占ではなかったという。 そうした目で見ると、夜這いなどの風習も違って見えてくる。 しかし、核家族では男性が養う見返りに、女性のセックスを独占した。 妻のセックスを独占することからは、産まれる子供が夫の子供であることが、無前提の前提となった。 核家族にあっては、子供は必ず父親と血縁がつながっているはずだった。 女性には血縁幻想がうまれる余地はない。 血縁幻想が必要なのは、子供の出自を確信できない男性にとってである。 核家族になって、男性によるセックスの独占と、子供の血縁が対になって、家族の支配価値となった。 男性には子供の血縁を確信できない。 ここで血縁幻想がうまれてくることになった。 情報社会になって、女性に経済力がついてくると、自立した女性は、結婚しなくても生きていける。 その男性がイヤになったら離婚すればいい。 自立した女性は、自分の好きな男性とセックスできる。 情報社会では女性のセックスは、1人の男性が独占できなくなった。 セックスと男女関係が切り離されたのだから、セックスの結果もまた違った意味になった。 ここで血縁が意味を失ったのである。 もはや血縁にこだわる必要はない。たとえ血縁関係はなくても、自分が愛情を注ぐ対象こそ愛おしい。 当然のこととして、血縁幻想も雲散霧消した。 アメリカなど先進国で、養子が増えているのは自然の流れである。(2007.07.22) | |||
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