認識×6+忘我論   第1−2回
1982年〜「花泥棒」に連載 
 
第1回 神・仏・人
第2回 擬制の血縁
第3回 性差を越えて
第4回 約束された価値
第5回 時と共に
第6回 他国を遠望して
第7回 忘 我

第1回 神・仏・人   その2
−承−
 子供のころを思い返してみると、中学校・小学校・幼稚園とさかのばっていくにつれて、だんだん記憶の糸は細くなっていく。
それは初め、線のように連続しているが次第に断片的となり、一場面的となり、そして、とうとう記憶のない幼年時代となっていく。

「この児は・・・・でねえ、こんなことがあったんだよ」

と昔日の話題を持ちだされて、面喰らうことが誰でも一再ならずある。

 こうした記憶にあやしい時代を想像してみると、まず自己にむけて発っせられた沢山の言語を受けとめて、それをそのまま投げ返すことの<り返しであった。
この過程を考えてみると、それは成人が他者とのあいだでおこなう認識の構造と、まったく変らないことに気付く。

 成人の場合との違いは、相手が日本人だとすれば、自他ともにすでに日本語を体得しているが、幼児の場合は、言語を体得する途中にあるだけである。
しかし、成人が外国など異った言語体系のなかにおかれたときは、まさに幼児期と同じ体験をすることになる。

 認識は−モノの認識であろうとも−他者という人格を、媒介としてしか成立しないと述べた。
自己認識は絶対的に孤立してなされるわけではなく、他者というヒトを鏡としてなされ、鏡にうつった姿を自己であると認知する。
他者を鏡として自己認識するために、求められる他者はどんなものか。

 自己とまったく同じ他者では、1人が存在するに過ぎず、認識の契機はない。
必要な他者とは、自己とは異った存在としての他者である。
自己と別の個体であるがゆえに、他者へ発っせられる言語は、異った部分として反応がある。
逆のようであるが、実は他者は異なっているがゆえに、意志の疎通が開始される。
自己に異質なものとして、他者が登場してはじめて、認識の契機がうまれる。

 言語をつかった認識の試行錯誤を繰返すことによって、徐々に他者を確定しようとすると、ちょうどそれと同じ分だけ、他者が明確になった分だけ、逆に自己も明確となる。
他者を確定する刃が鋭く他者に斬りこみ、その返り皿が我身にふりかかるとき、自己は他者の存在を、したたかな手応えをもって実感できる。
そして、その実感のつみ重ねが、自己を形成する。

 ヒトが他者と交じわる時、視認から始まり、友交・敵対・・・さまざまの形態がある。
目視するだけで関係が成立する場合もないではないが、目視だけでは他者は単なる風景の一部である。
一般には言語の使用をもって、関係の開始と考えてよい。そして、愛憎さまざまな次元へと発展する。

 まず言語である。
言語は一義的でなければならない。
他者に斬りこむ刃が無限定な言語であったり、多義的な言語である場合は、それが他者を確定する作業に役立つことはない。
はじめは多義的であっても、曖昧な言語は使用されるたびに、不純性はどんどんそぎ落とされて、常に一義性へと追いこまれる。

 言語は使用することによって検証され、使用されるたびに一義性を約束しなおされる。
それゆえ、自己と他者の往復関係をまたぐ言語は、常に明確な形として現前する。

−転−
 ところが、自己と他者が別の個体であるという前提は、ある重大な結論へと導く。この前提は、自己と他者の相互了解不可能性へと結果する。自己認識のためには、自己と他者は異なったものである必要があるが、同時に、自他は絶対的に了解不能だという結論にいたる。

 たとえば、愛する男と女の関係は、最も強い関係の一つだが、2人の感覚や心性は了解不能であり、最後のところは想像が補っている。セックスにおいて男性のかんじる快感と、女性のかんじる快感は、たがいに知りえない。関係が強いがゆえに、了解不可能性も、より強いかたちで表われる。

 自己を他者に伝え、自己と他者がよりよく認識しようとしても、自己を直接的に他者に伝えることはできない。他人の感覚は実感できない。

 ことは男女にかぎらない。2人が何かを食べて、これは塩っぱいとか、これは辛いと感じても、これを伝えるのは最後のところで、相手の想像に頼らざるをえない。2人の味覚は別の、決っして交換されることのないものである。他人の味覚は実感できない。痛いという生の感覚は、単なる不快感でしかないが、痛いと認識したとき、他者と共通の認識を獲得する。

 前章で述べたとおり、自己も他者もともに生の痛さを、表出することは不可能である。個体が感じている生の感覚は、言語をつかった認識の地平へのぼるとき、自己にとっても他者にとっても了解可能となる。それは逆に痛いという認識から、生の痛さを想像によって、おぎなう経路が発生しているから可能である。相手の感じたであろう味覚を、自己の体験した味覚にひきくらべて、想像し追認する。

 想像は実感に近づ<ことはできても、けっして実感ではない。そのうえ、同時にたくさんのヒトが同じ経験をしても、各自のなかには、少しづつ異った認識として結果する。自己の容量以上の認識はできない。言語にささえられた認識と、認識から想像をへて生の感覚にいたる往復の過程は、常に一個体のなかで完結し、それ自体を共有の体験とすることはできなない。

 想像によって他者の感覚を追認する道は、他者を理解する唯一の方法である。そして、自己認識が他者との間にかかる言語によってなされるから、他者の感じているであろう事柄を自らのものとするのは、自己を認識することと等価である。つまり自己認識と他者交感とは、同じコインの裏表である。

 自己認識の先鋭化、つまり他者の完全な理解は、言語の交換から始まり、体験の共有をへて、再度自己と他者との関係性のうえに舞いもどる。この円環構造は、想像力の深化を伴いながら、最後のところで相互了解不能性を残す。言語が認識の有力な道具であればあるだけ、了解は不能である。言語でもって、その了解不能性を零にするのは、逃げ水を追うのと同じである。

 自己認識の徹底化の道程は、不能という不安を先に見る。自己認識をつづけると、最後のところで不安を残す。それでも、自己認識は続く。不能を追う旅は、不安を同伴者としてえんえんと続く。最後の一歩を踏みこんだヒトは、不可避のうちに不安にたどり着いてしまう。自己を知ろうとした旅は、不可解にむかってすすむ。不可能を判りながら、これ以外の道はなく、認識の深化は続く。

 自己認識は、生の感覚によってなされるのではなく、他者とのあいだにかかる言語によってなされる。しかも、自己認識は自己自身の解剖ではなく、他者との往復関係のあいだに成立する。不能である道を、不能と知りつつ歩む重圧は、ヒトに不安をあたえる。そして、不安に耐えられなくなる時、発狂が不可避となって迫ってくる。

 他者の感覚は直接的に共感できず、認識の次元にきて、はじめて想像によって追認できのだから、自己の追求も最後のところで想像のうえに成立する。想像から実感への手応えの追求は、不能という不安にさいなまれ、ヒトの脳はそれに耐えきれず発狂する。自己認識の徹底化は、発狂しかありえない。

 しかし、自己認識が発狂に至らないのは何故か。ヒトはそこに<神>を見いだすからである。ヒトの脳に耐えられないほど、不安が大きくなるとき、ヒトは自己と他者の外に、約束された絶体という概念を生みだす。約束された絶対とは、<ヒト>ではあるが、自己でもなく他者でもない。約束された絶対の人格的表現が、絶体者=神である。

 神は自己認識の存続と、他者との了解不能性を救うために、どうしても発生せざるを得なかった。不安に耐えられないヒトの脳は、麻薬的効力を持つ神を生みだした。理解・認識の対象としててはなく、信ずるか否か、信じなければ己の脳が破壊してしまう直前に、神はヒトを救うために絶体として現出する。

 ギリギリと続けられた自己認識が、不安を見て発狂に至る寸前、神の救いによってヒトは思考を停止する。そして、考え続けなくても良いという、快楽約状態へ解放される。自己認識の必然的結果が、神へいたる道である。神は俸大である。神は誰にたいしても救いであり、救世主である。けだし、最後を救う者は、すべてを救うのだから。

 疑う対象・思考の対象から外れた絶体者は、それだけで創造主になる。絶体を信ずることは、瞬間の思考の停止である。今、ここで私は奈落の底を見ている。
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