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この終章は、前3章と全く別の方向から考えられたものである。 認識の構造は、自己と他者との関係の上に成立するといっても、私たちがこの原理を実感することは困難であろう。そして、論理的記述は、それがいかに現実を精確にとらえていても、何となく実感的手応えがないことが多い。その原因を以降で考えることにする。 子供が育つ過程は、前章でのべたように、外部の影響下に自己が他者を内に繰り込みながら、自己を表出していくものである。この過程は成人が未知の領域を学習し、体得するときと同じ過程だと前述した。 自己と他者のあいだに成立する、他者を鏡とする関係を、成人が未知なるものを体得する過程で考える。たとえば、学校や道場・教室・クラブなど、どこでも同様なのであるが、どんな領域でもある組織に身をおいたとき、その自己にとって実現されるべき目的は、じつは最初から自動的に決まってしまう。 学習の目的は、その組織なりが、究極の目的や価値としていることと同じである。そして、学習する方法は、先達を先頭に若者まで一列に隊列をつくって、全員が学習目的へむかって走る。後発の者は、別の道をへて学習の目的に至るのではなく、師やコーチのとおった道を後から走り始める。 もし、後発の人が優秀だと、あるとき、師に追いつくことが出来るかもしれない。その時には、免許皆伝として、卒業してしまう。何かを体得する作業は、個人がするものであろう。師といえども忠告者に過ぎないが、最初に学習目的の途中に師を見たため、まず師に重なるという手段を踏まざるをえない。特に武道や古典芸能の世界では、こうした形を顕著に見ることができるが、我々が学習する過程は、独学する場合をのぞけば、すべて同じである。 最高価値と師を結んだ延長線上からではなく、別の方向から最高値値に接近しようとすると、師から厳しく叱責される。一般に最高価値をそのままとし、師とは別の道を歩くことは分派活動と見られやすく、これまでの師の実践にたいする全面的批判となる。 別のコースを歩こうとする師弟の能力や立場が、近ければ近いほど骨肉の争いとなる。それをさけるため通常の師弟関係は、無前堤的に同質の求道者という傾向をはらむ。そこでは師への批判はない。小学校であっても、師を批判する子供は嫌われることを思いだして欲しい。 前章まででは、自己の認識は他者を待ってはじまるとした。そこでは言語が不完全ではあるが、自己認識の最大の武器であると述べた。しかし、この師弟の世界では、事情はまったく逆である。師に対して弟子が重なったときを、至上の段階とする。だまって修業することが無上の幸せであり、無言の業が道を極める過程である。 「理屈ではない」という認識の産物が、師から弟子へと伝えられ、考えるのをやめ自己をなくすことが称揚される。自己をなくすことは、無我の境地と賞賛される。この世界では、無我の境地=言語による自己認識の放棄が、理想の姿として追求される。だから言語による認識は、まだまだ次元の低いものであり、言語が必要なあいだは、まだ良質な人間関係でもないし、高次の自己認識でもないとなる。 こうした世界では、言語自体が一義的に確定されない。言語の使用が、使用されるたびに言語の一義性を確認する作業とはならない。ここでは使用される人と揚所に応じて、同じ言語がさまざまに変化し、同じ言語が多義性を有するままにおかれる。言語自体が普遍的に力をもつことはない。 他者を鏡とした認識は、絶対的な了解不能性のうえに成立したが、多義性のままにおかれる言語は、言語たりうるだろうか。言語が生の感覚を喪失して、登場せざるをえない属性を知ったうえで、一義性を放棄したのであろうか。ヒトが言語の限界を知っていて、その限界の外で自己認識を成立しようとしたため、多義的な言語が生まれたのか。これに答えることは難しい。 ところが、この多義的言語も、その使用される時空間を限定すると、一義的になり、とても活き活きとする。たとえば、1982年の東京の学生間で使用される言葉、もしくは大阪の商人間で使用される言語とすると、言語は一義的になり話者や聞き手に迫る力をもちうる。 限られた時空間でのみ生命を燃焼できる言語は、確定された言語として時空間をこえて、種々の人々を領有することはできない。井戸端会や職場の雑談から、村八分にされることは大変な苦痛であるが、テレビのニュースが判らなくても、何の痛痒も感じない。 初対面の人が集まって、確定された約束事としての言語をつかって、会話を楽しむ習慣は絶えてない。私たちの言語は、ごく一部の区切られた世界のなかで生命をもった言語である。 自己と他者が言語を媒介として、関係を取り結ぶ構造が一般ではない世界では、神の発生は不要である。この世界は、自己が他者であり、同時に他者が自己であるわけだから、自己と他者の絶体的相克の淵に立つ必然はない。そして、相互不可解の不安にさいなまされることもない。ここでは人は皆同じであり、自他が同一であることが理想になる。 ここでは不安がこうじて発狂することはない。反対に、自己の思い入れが他者への重りとなって現出し、自己の意識は他者への陶酔となって醸成されていく。人が確信する時、自己と他者の危い橋のうえで、普断の決意によってそれを支えるのではなしに、決っして違うはずがないという信念に陶酔することとなる。 この信念を共有するとき、人は他者と全人格的に共感し、他者に全的に没入する。しかし、一度それが破れると極端に走り、全人格の否定へと陥入りやすい。そのため、この世界では、唯一絶体の神はありえず、相対の世界を許容する仏との出会いに人は心を開く。 仏は心広く、生身の人を丸ごと救う。ここでは自己認識の契機がないから、仏は自己の内的必然から発生するのではなく、ある時機から入信の対象として選ばれるか、もしくは仏たちの並立が許容される。それゆえ、言語が一義性を持たない世界では、絶対が登場しない。つまり言語が力をもたず、言語による認識が論理となって残らない。論理は悟りの前に無力である。 この世界は、言語認識の世界とは、まったく別種の体系をつくりだす。それは改めてここで書きだすまでもなく、日常の私たちが毎日体験する世界である。私達の日常は現実であり、現実こそが緑豊かであり、実利的な具体のなかを生きることに、最大の価値をおく世界である。ここでは論理よりも、実利が優先する。 私たちの世界では、自己に沈潜し、自己を見つめることが、自動的に他者へ広がっていくという約束が成立している。認識の結果としての論理は、自己と他者とのあいだから発生したゆえに、この世界では最後のところにきて、ヒトを撃ちぬくことができないのである。 ここまでは1982年に書いた。いま読み返してみると、本論は「自分探し」や「ニート」への解答となっていることに気がつく。言語が優位しない我が国では、自分という本質があるとみなされるために、自分探しをしてしまいやすい。 自己認識は他者と他者のあいだに発生した言葉によって、しかも他者を鏡としておこなうと知れば、自分探しがいかに無益な作業かわかる。しかし、言語による思考よりも、無言の業を重視する我が国では、自分があるかのような本質論を大切にしてしまう。自己は他者との関係においてしか存在しない、という事実から目をそらすために、自分探しが流行ってしまうのだ。 工業社会は土地から物への変身だったから、本論が述べる我が国特有の無言の自己認識が残りえた。しかし、情報社会とは無形の観念が支配する社会である。ここでは我が国といえども、自己認識は言語に頼らざるをえない。情報社会へと転じることは、世界的なながれである。今後ますます、言語を鍛えなければならない。(2007.07.15) | |||
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