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かつては神殿を作ることは、神と向いあうことであった。 木や石を切ったり、土を運んだり、瓦をふいたりすること自体が、神とともにいることであった。 た とえ雑役夫が、仏像や神殿に頭を垂れなくとも、彼はいつも神と向いあっていた。 彼らの存在自体が神とともにあり、すべての労働が神の名のもとになされてい た。 仏師だけが仏像を作ったのではなかったし、仏画を描いたのではなかった。 いわば当時の社会が仏像を作らせたのであり、仏画を描かせた。 現在でも、神殿は 作られているし、仏像も描かれている。 いくらか工法の違いはあれ、そこで働く人は、古の人と同じよろに石をけずり、木を切り土を運んではいる。 しかし、もはや現代の私たちは、木を切ったり土を運ぶという労働をしているにしかすぎない。 私たちの労働は、働くこと自体で神と一緒にいる行為とはなっていない。 再度確認するが、奈良時代の労働者(労働者とは何と現代的な響きだろう)は、労働が神と一緒にいることであり、己の存在自体が、神と同じところにいることだった。 彼等の技術は、無前提的に神殿のためのものであり、現代のように一つの様式としての神殿ではなく、神殿が彼等の生活そのものであった。 神は生活のなかにいるのであり、労働者の存在自体が神と連らなっていた。 このことはいくら強調しすぎても、強調しすぎることはない。 近代になって、人が神に反抗しはじめた時、やっと人は己の手を、自分の眼で確認することができた。 神からはなれ、神を己の身からうち捨てることによって、やっと近代的人=自 我を持った人間へと、跳躍できたのである。 −自我そして個の自覚− あるとき時を越えて、私たちの先租に、共感を覚えることがある。 また、血縁の連続性を不変のもののように考える傾向を、いまでも私たちは当然のごとくに 思っている。 しかし、これこそ虚偽にすぎないことが判るだろう。 擬制の血縁でも述べたように、血縁の親子関係が、文化の連続性を保証するのではない。 擬制の血縁が関係の本質なのだから、何代もの日本人といった血縁の先祖論は、ほとんど意味をなさない。 歴史は、常に現在から見た歴史であり、現在をはなれて過去に内在することは不可能である。 歴史は近似としての想像の過去であり、それを考える人間の足は、まごうことなき現在に立っている。 私たちはときどき時間をこえて、古い物が存在する錯覚に陥入るが、物が存在し続けるのではなく、その物がある意味をもって、瞬間ごとに認識されなおすだけのことである。 物の存在は、人間の意識野から外へでることは決っしてない。 これが近代以降の自我の考えるところであり、神と交わることのない私たちの意識である。 世代が自我によって越えられようとした後、性差が残った。 自我はどこにあっても自我であり、男の自我と女の自我という違いをもたない。 近代人の価値感は一つであり、それがゆえに神に反抗できた。 今、神との戦いは最終回に突入した。 寺院建築は、彫刻、絵画などなど、多くの種類の職人に支えられてきた。 演劇などの音をともなう表現を別とすれば、他の表現は建築をとりまく装飾の一部であった。 絵画にしろ彫刻にしろ、建築のなかにある部分を占めていたにすぎない。 そのため建築は、神の代理であった。 いまや絵画や彫刻など、部分は独立し、 神のもとから離れた。 と同時に、建築も代理者の席を外されてしまった。 建築の部分は、近代の自我が成立する途中で、部分たり得なくなった。 部分は、部分が部分であることに目覚めた。 部分は自我をもち、神への反乱をくわだてた。 そして、神と全的に衝突することによって、自我を解放し、代理者のもとを離れていった。 建築は神にもっとも近い所にいた分だけ、部分の反乱を目のまえにしても、自己を解放するのが遅れた。 いや、神の代理であったがゆえに、神と対決できなかった。 建築を背負う自我は、部分に優位する座からすべり落ちてしまった。 神を殺して以降、常に「何のために」が問われ、絵筆を一本動かすだけにも理由づけが必要になった。 もはや神はいない。 すべて人間のためとなった。 絵画も彫刻も他のすべての表現も、そして建築もすべて人間のためになされる。 個々の行為の動機づけは、いつも違ったかたちで、「何のために」と問い直されてきた。 その時、神から離れた自我は、やっと他者というもう一つの自我とめぐり会い、語り合う地平に立つことができた。 なぜ神が存在したのだろうか、神の存在理由が、あらためて問われるようになった。 <神仏人>で神の発生を瞥見した。 神の存在理由とは、自己と他者の了解絶体不可能の回避だ、といった。 この神は、ひどく近代の神だったのである。 それまでの神は、大勢の人が並列したうえに、無条件に存在するものであったし、人を越えたところに存在した。 自我をもった近代の私たちは、超絶性としてではなしに、関係性の保障として神を考えている。 つまり、外化したものとして考える神は、近代のものなのである。 それ以前の神は人間の存在そのものとして、人間のなかに宿っていたのである。 神殿を作ったかつての雑役夫にとっては、土を運ぶこと自体が神の体現であった。 たとえ仏像を足蹴にしても、彼の神とともにあるのは、いささかもゆるぐことはなかった。 だから、神のまえには、署名つきの仕事はありえなかった。 誰が神殿を作ろうと、そんなことはまったく無意味である。 ただ神殿が存在すること だけが問われた。 神に連らなる途を捜すこと自体が、近代人の所業である。 作家と名のること自体が、近代人そのものである。 その時代の支配の思想は、常に一つしかない。 その社会のなかで、さまざまにうごめく生身の人間たちは、最大の価値のもとに集合させられている。 外化されることによって神が自覚され、同時に神は死んだ。 −意識する世界− 私たちは時をはかる単位をもっている。 それは時間と呼ばれたり、年月と呼ばれたりして、絶体単位としてのものと知覚しているが、本当はものさしで計れるようなものではない。 時計という時をはかる機械で示される単位は、一見同質の連らなりと思いがちだが、時は<約束された価値>の連続であり、作日は今日という<約束された価 値>群からの想像にすきない。 それだから、私たちは過去を有用なものとできる。 直線的等質な超過として時を考える時、私たちの歴史から色彩が消えうせる。 時は私たちの外にある単位ではなく、意識の産物である。 近代の私たちは、もはや奈良の人々のような神殿を作ることはできないし、仏画を描くこともできない。 神の椅子に座ってしまった自我は、それゆえに神の悩みを悩まなければならないのである。 参考 岡村康彦著 吉本隆明の「彫刻のわからなさ」への一つの解 社寺建築の職人、つまり宮大工の職人として、ボクは社会人になった。 そのため、建築とりわけ奈良の建築、とくに法隆寺には特別の関心があった。 社寺建築の本場は、やはり関西であり、なかでも斑鳩の建築は、とても魅力があった。 大きいだけなら少しも驚かない。 ボクでも充分に建築可能だ。 しかし、法隆寺は別である。 中庭に立ったときの緊張感は、ボクには造れないだろうと思わせた。 なぜ、法隆寺が恐ろしい雰囲気をもっているのか、とずっと考えてきた。 その回答が本論へとつながっている。 <自己>を知ってしまった。 個人になってしまった。 プライバシーをもってしまった。 物質的に豊かになってしまった。 近代になってしまっ た。 神を殺してしまった…。 おそらく、帳尻を合わせるように、死んだ神に強いられるだろう、と少し畏怖している。 (2007.08.02) | |||
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