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9.すべてを点として理解する 012345…と並んだ数字は、連続しているように見える。 しかし、各数字のあいだには遠い距離があって、0 の次は 1 ではない。 0 の次は、0.9 の 9 が無限に続いたのを、1 から引いた数字である。 つまり 0 ではないが、限りなく 0 に近い数字が、0 の次の数字である。 純金とは、金の含有量が 99.99% あるのをいうとすれば、0 と 0 の次の数字との差はないといえる。 ボールペンで書いた線を、巨大な虫眼鏡で拡大して見たら、どうなるだろうか。 インクが切れ切れに続いており連続していない。 しかし、肉眼では連続した線に見える。 とすれば、極小の点を一直線に並べても、線を描くことができると思いつく。 しかも、その点は小さければ小さいほど、間隔をつめればつめるほど、より線に近くなるのも自明である。 では、その点がどのくらい小さければ、線と呼べるのだろうか。 線だけではなく、面であっても小さな点で表すことができる。 印刷された写真を虫眼鏡で見ると、小さな点の集まりであることが判る。 19世紀の終わり頃、スーラ やシニャック ら新印象派の画家は、キャンバス全体を純色の点で埋め尽くし、一枚の絵画にした。 点描画の発見は、現代絵画につながる道だった。 面を点で表すことが可能なら、立体を表すには面を積み上げればいいのだから、立体を点で表すことは可能なはずである。 現実を微少な点へと分解し、その点の状態を一つ一つ数字で表せば、完全な現実ではないけれども現実にきわめて近いのができる。 そして、その点にすべて番号を付けてやれば、点の位置が特定できるので、いつでも復元可能になるだろう。 つまり現実を微少な点ととらえて、現実を点描の世界に置き換え数値化することによって、いかなる現実でも表現できるようになる。 すべてのものを点へと分解していけば、全体が何であろうと同じ点という単位で表すことができる。 細分化して理解せよとは、昔からいわれてきた。 しかし、細分化すればするほど情報量は膨大になるから、極度に細分化して自然を認識するのは、人間の能力を超えたものだった。 それがコンピュータの登場によって、細分化された膨大な情報を、たやすく処理できるようになった。 コンピュータの能力が上がったために、瞬時に膨大な計算ができ、精確に数字を扱うことができるようになった。 精確な計算によって、月にロケットを飛ばすことぐらいはできるようになった。 しかし、どんなに高い精度であっても、デジタルなる数字が表すのは決して現実そのものではない。 近似といった形で、どこかで四捨五入されたものである。 100%の金ではなくても純金と呼ぶように、連続した自然とは同じではないけれど、限りなく自然に近いもの、それがデジタルな世界である。 10.ONとOFFの世界 コンピュータのする計算・判断・記憶は、電子回路のなかを流れる電流によってなされる。 電流が流れるのを ON とし、流れないのを OFF とすれば、回路のなかは ON か OFF、どちらかの状態でしかない。 二つの選択肢しかないのだから、一方を 0 とし他方を 1 とすれば、電流の状態は 0 と 1 のどちらかである。 だから電流は、二つのデジタル 0 と 1 で制御できる。 0 と 1 だけの組み合わせで、電子回路に指令をだしてやれば、コンピュータは動く。 つまり、機械言語と呼ばれる 0 と 1 の並びだけで、コンピュータは意味をもった世界を語れるのである。 私たちは目玉に写った花を、色香からその姿までたちまち感得し、無意識のうちに花だと知る。 では生まれつき眼の見えない人が、突然に見えるようになったら、花が花として見えるのだろうか。 残念ながら花は見えず、霧がかかったような乳白色の風景が、広がるだけだといわれている。 腕を切断してしまった人は、失った腕にも感覚が残っており、今ではないはずの指先にも痛さを感じるという。 眼で見、手で触って感じているようでありながら、実はそれを認識し、理解しているのは脳である。 脳のなかを走り回る信号が、花を花たらしめ、刺激を痛さとして感じさせている。 しかし、目玉や指先から脳へと走る信号を、意識として体感することはできない。 無意識のうちに花を花だと知り、刺激を痛いと感じている。 自覚できない信号を想像してみれば、形や色など無数の情報を瞬時に脳に送り、脳に蓄積されたデーターベースと瞬時に照合し、これは花だと判断しているに違いない。 それがあまりにも早いので、すべてが一度になされたように感じ、認知の過程は自覚できないだけである。 しかし、形や色などの認識・伝達・照合を、自覚的に一コマずつやることが可能だとしても、時間はかかるだろうが、花だと認知する結果は同じである。 今まで私たちは物の名前と物は密着している、つまり物とその名前は一体化しており、物を認識することと物の名前を知ることは同じことだと考えてきた。 私たちは花を瞬時に花と知ってしまうので、花という言葉の理解には花という物が不可欠だ、と思っていた。 しかし、花という言葉は花という物がなくても、理解することは可能である。 脳のなかの花という概念=データーベースが、花を花たらしめるのである。 花を理解するには、花という概念があればよく、花という物は不要である。 言葉は物と密着してなくても、換言すれば言葉は物の支えがなくても、データーベースさえあれば言葉であり得る。 コンピュータは現実に存在する花を知ってはいないにもかかわらず、0 と 1 の組み合わせがデーターベース上の花と一致すれば、花と認識する。 ここで現実が現実に根拠をもつ必要性を失ったのである。 現実の花を知らなくてもコンピュータは花を認識するとすれば、人間が仮想の現実をコンピュータのなかに設定してやっても、コンピュータにとっては現実的現実と仮想の現実の区別はつかない。 それが色香ある花という生の現実と、0 と 1 で表されるコンピュータ言語の関係である。 0 と 1 のデジタルな世界は、理屈や論理をあつかうのは得意だが、情緒と呼ばれるように流動的で、不定形な世界は不得手である。 そしてコンピュータには、閃きといった発想の飛躍もない。 それはデジタルの世界が、0 と 1 という断続したものだから、茫洋と連続した世界を表すのが難しいのだろう。 デジタルな思考が人間の代打になるのは、まだまだ完全ではなく、直感とか閃きそして禅的な悟りには遠く及ばない。 |
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