コンピュータなるもの
川崎八重子 & 匠 雅音

目  次
はじめに 1.コンピュータ前夜 2.錬金術を見なおす
3.アナログとデジタル 4.カンの数値化と数表 5.デジタルが近代を開いた
6.コンピュータの誕生をめぐって 7.コンピュータ・アーキテクチャー 8.ハードウェアとソフトウェア
9.すべてを点として理解する 10.ONとOFFの世界 11.パソコンの誕生と普及
12.インターネットの登場 参考文献

5.デジタルが近代を開いた
 数学と哲学が未分化だったとは前述したが、「われ思う、ゆえにわれ在り」で有名なデカルトも、哲学者であると同時に数学者であった。
1687年に完成したニュートンの「プリンキピア」の正式な題名は、「自然哲学の数学的原理」である。
1781年に「純粋理性批判」を書いたエマヌエル・カントは哲学者として有名だが、彼には「天界の一般自然史と理論」という著作があり、若い頃は数学と物理学の研究者だった。

 1760年頃から1830年頃にかけて、イギリスにおける紡績機械の改良に端を発し、経済・社会組織が飛躍的な変革をとげたのを、産業革命と呼ぶのは周知の通りである。
歴史的な現実は、何の前触れもなく起きるわけではない。
産業革命が突発的に実現したのではなく、そこに至るにはさまざまな発見や発明が先行している。
時計は14世紀に発明されてはいたが、時間を数字で表す機械式の時計が一般に普及するのは1700年頃である。
時計が普及して初めて、変化の過程を数値化する規準ができたわけであり、これにより変化という過程を精確に記述することができるようになった。
酸素が発見されて、物が燃える原理がわかるのは1700年代の後半である。
ここで成分を数値で表すことが始まる。
今日では、焼き物を化学変化ととらえ酸化還元の過程だと考えるが、その萌芽はこの時に生まれたといってよいだろう。

 その後、自然や環境のなかに規則性を見つけ、今日につながる科学の法則が大量に生まれている。
これらの多くは、神の御手にあった自然を細分化し、対象の変化を数値で表したものである。
そのため、世の中に起きる現象を細かく分析し、それを数値化し、そのなかに規則性を捜すという作業が、近代の工業社会を開いたといっても過言ではない。
もちろん、近代初期の数値化は幼稚で、とても人間のカンにはかなわなかったので、アナログかデジタルかといった話題が、人の口に上ることはなかった。
しかし、錬金術のところでも述べたように、現象を精確に捉えようとすれば数値に頼ることになるのは不可避である。
幼稚ではあっても、数字による追求の積み重ねが規則性の発見につながったのは明白であり、徐々にではあってもデジタルな思考が成長してきたのである。

 近代的工業が実現した世界は、それまでの農業を中心とした社会とは違って、圧倒的な力を持っていた。
そのため、西欧近代はわが国に限らず世界中に大きな影響を及ぼした。
近代において新たな発想が芽ばえたという意味で、デジタル的思考が生まれたとも言えるし、デジタル的思考が近代を切り開いたとも言えるのである。
デカルト、パスカル 、ニュートンといった近代に先立つ偉人たちが、哲学者であると同時に数学者でもあったように、数学的な思考は自然や人間の理解に不可欠なものだった。
つまり、近代こそデジタルなる数字と数値的思考の揺籃期だったのである。 

6.コンピュータの誕生をめぐって
 昔から商人や徴税官といった職業の人は、複雑で膨大な数字の計算を避けるわけにはいかなかった。
とりわけ10進法や12進法・20進法が混在していた時代には、その計算はやっかいなものだった。
フランスの哲学者パスカルは、徴税官である父親の計算を手伝っており、その困難な作業を解消すべく歯車式の計算機を作った。
これは優れた計算機だったが、複雑で高価だったため広くは普及しなかった。

 コンピュータを辞書で調べると、計算機もしくは電子計算機とある。
コンピュータが計算機という意味なら、計算尺や算盤もコンピュータであろう。
しかし、計算尺や算盤をコンピュータという人はいない。
また、電卓には電子回路がたくさん使われているが、これもコンピュータとは呼ばない。
コンピュータとは一体なんだろうか。

 1800年代の中頃、イギリスの数学者チャールス・バベッジ が、歯車式の計算機<階差機関 >を作ろうとして苦闘したが完成には至らなかった。
きわめて精巧なこの試みには、コンピュータの原型が詰まっており、この過程でコンピュータにつらなる発想が生まれている。
それは計算をさせる部分と、データーを保存する部分に分けたことである。
これにより四則計算であれば何でもできるようになり、計算機に汎用性を持たせることが可能になった。
演算部分とデーター保存を分離したことにより、機械に計算をさせる論理なるものが人々に認識され、制御する論理つまりプログラムという概念が生じたのである。

 20世紀も1930年代にはいると、コンピュータにかんする研究は様々に胎動を見せ始める。
ドイツではツーゼ とシャレヤー がZシリーズ としてコンピュータを開発・研究しているし、アメリカ海軍とIBMの支援をえたエイケン が MarkTを製作している。
また、イギリスではドイツ軍の暗号解読のために COLOSSUS が作られているし、アメリカのアイオワ大学のアタナソフ が先端的な研究を続けていた。
しかし、これらはいずれも汎用性を持ったプログラム制御を内蔵したものではなかった。

 第2次世界大戦前、ペンシルバニア大学のムーア校に、電気工学の専門学部が開設された。
気象学者だったモークリー と、大学院生だったエッカート がその「国防要員養成コース」に参加する。
そこで、彼等は真空管を使った計算機の開発に着手したが、多くの反対にあった。

 戦争が始まりそうな気配が迫っており、戦争に使う目的での数学的研究をすすめる要求が増えていた。
例えば、大砲を撃つにしても、砲身の仰角の決定には計算が必要である。
大砲の性能や弾丸の種類に応じて、発射条件を変えなければならない。
そのためのには複雑な計算が要求されるが、その計算を戦場でやるわけにはいかない。
そこで研究所などで事前に弾道計算をして、射撃一覧を数表に作成しておき、戦場ではそれに従って発射するのである。
ここでも精確な数表が不可欠だった。

 戦争という状況下では、その数表は可能な限り早く作る必要がある。
手計算しかない時代には、計算要員を大量に動員して数表を作成していたが、人海戦術には限界が見え始めた。
そのため、政府は機械による計算の必要性を感じ、エッカートとモークリーの真空管を使った計算機に関心をもち、陸軍の弾道研究所において研究を開始させた。
1944年、エッカートとモークリーの研究に、フォン・ノイマン が加わる。
そして、バベッジの試みから約一世紀後、1946年世界で初のコンピュータといわれる ENIAC が誕生する。
大砲の弾道計算のために生まれた ENIAC だったが、すでに戦争は終わっており、ENIAC を初めに走ったプログラムは幸か不幸か弾道計算ではなかった。

 ENIAC は真空管を18,000本も使った総重量が30トンという巨大なものだった。
ENIAC によって、今日にいうコンピュータの計算・判断・記憶ができるようになったと一般には言われている。
しかし、コンピュータと計算機の違いは、コンピュータが電脳とも呼ばれるように、プログラムつまり計算機に仕事を処理させる手順系列を内蔵しているか否かである。
しかも最近では、プログラム可変内蔵でなければならないと考えられている。
こうした点に着目し、人類初のコンピュータは ENIAC ではなく、1949年にイギリスで作られた EDSAC であるという人もいる。 

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