21世紀の家族像と住宅    3/3  1997.9.12.

 単家族とは、個人もしくは単身生活者と同じではない。単家族とは世代交代を含んだ概念で、経済力のある成人+子供を単位としている。成人のみの家族はあり得ず、成人のみを対象とした住宅計画はあり得ない。単家族はシングルズとかディンクスとは違う次元の概念である。そこが前著「性差を越えて」の限界を突破できた理由であり、他の同種の多くの試みを越えたところである。

コラム−3:「バードケージ 1996」という映画で家族の基準が出来た。子育てをしているゲイのカップル(=単家族の2世帯同居)に、故あって生みの親が登場するが、子供は育ててくれた男性を母親だと宣言する。生みの親と育ての親が違うことは今までもあったが、両者ともに女性だった。今や育ての親は性を問わない。

 現在のフェミニズム論者たちが、家父長制を批判の対象にし、家庭内における男性支配を問題視している。そして、家父長制の打破こそ男女平等の目標であるかのように、論を展開している。確かに工業社会まで、社会のすべてを男性が支配していた。当然のこととして、家庭内まで男性支配が貫徹しており、それを家父長制と呼ぶことは当然である。2DKの間取りからは家父長制の臭いがする。しかし、情報社会へ転換する今、家父長制を取り上げることは、核家族を無前提的に前提することになる。

 家父長制は核家族社会までの支配概念であり、核家族が崩壊過程にはいった今、家父長制を云々することは核家族を温存する働きを持つ。情報社会では肉体の価値は無化され、肉体的な非力さは劣性ではなくなる。そこでは、個人が労働を担うのであり、男性という強い肉体が担うのではない。とすれば、主寝室=男性とその妻の部屋だったものが、個人の部屋へと転化して行かざるをえない。それは、室+水廻り+収納をひとつの単位=個室とする住宅となる。


 さて、結論に進もう。家族論から住宅設計までは、まだ少し距離がある。あれが良くてこれが悪いといった、具体的な話を期待されているかも知れないが、この距離を越えることは、住宅設計という建築の領域だけを検討しても不可能で、社会的な背景を考える必要がある。そこでもう一度、近代の入り口にもどってみる。

 近代にはいるとき、小さいながらも肉体から精神への転換があった。当時独立した主体とされたのは、男性だけだったので、価値観の変化は男性を対象とした。それは様々な分野に渡っており、たとえば学校の誕生、標準時間の使用である。これらに関しては、「核家族から単家族へ」でも触れたから繰り返さないが、見落とされがちなものに牢獄から刑務所への変化がある。

 農耕社会の刑罰とは、応報的な懲罰的肉体刑だった。近代に入って、それが社会復帰を目指した教育刑に変わった。罪を犯したけれど、教育することによって社会復帰させる。犯罪者には隔離という刑だけが必要なのであり、刑務所のなかは外部の社会を模した小さな社会でなければ、出所者は社会に適応できない。ここで肉体から精神に、刑の照準が移動している。刑務所の態勢が抜本的に変わったことは当然である。

 犯罪を犯したら刑務所へ入るが、我が国では悪いことをしたら懲らしめられて、当然だと今でも思っている。だから犯罪者にはきびしい刑罰は当然であり、それが人権を無視した懲役刑を、不思議に思わせない背景を支えている。ところが、近代の刑務所は懲らしめるための場所ではない。犯罪者にも人権はあり、それは守られるべきだと見なされているので、西欧諸国では刑務所を通常の社会と同じようにしようとした。アメリカ大使館には、日本の刑務所に入っているアメリカ人の面倒をみる課があるという。

 「うなぎ 1997」という映画を見た人は気がついたと思うが、刑務所内は「オイッチニ、オイッチニ」と言いながらの軍隊行進が強要され、玉検や全裸検査がいまだに行われている。刑務所内は徹底した管理社会で、管理に上手く適合する模範囚は、自分で考える力を失ってしまう。そのため、社会に出ての生活力がなくなり、刑務所内の生活を求めて、再犯者となり易い。日本の囚人は累犯者が多く、高齢化している。これは先進国では日本独特の現象である。

コラム−4:アメリカでは成人の凶悪犯罪が減るなかで、1983年から青少年の凶悪犯罪が増加に転じた。我が国でも、成人の凶悪犯罪は減っているが、今年から青少年の凶悪犯罪が増加に転じた。アメリカと我が国の犯罪動向の変化には、約15年の開きがある。女性の台頭と青少年犯罪の増加は、盾の両面といった平行現象で、人間活動が自然の支配を離れたことの違う表現である。

  カウンセリングが主流になっている西洋の刑務所と異なり、我が国の監獄法は明治の法律で、そのため監獄が農耕社会的な懲罰主義で、国際基準に違反した厳正独居が行われている。人権が問題にされているのは、中国やミャンマーだけかと思いきや、日本の監獄は人権が遵守されているか疑問視されており、1994年7月アメリカのNGO「ヒューマン・ライツ・ウオッチ」が視察し、国連人権委員会に報告書を出している。その結果、旭川刑務所の磯江さんが、13年ぶりに厳正独居から工場出役になった。1995年のことである。

 病院が肉体の病気をなおす施設であるとすれば、刑務所は心の病気を直すところである。刑務所は徹底的に1人になる空間であり、ここで個人とはどうあるべきかを考えるべきだと思う。我が国では犯罪者の親族たちにも、非難のつぶてが飛び、それを受けて親が謝ったり自殺したりする。これは個人が自立していない証拠であり、農耕社会的な村八分と何ら変わらない現象である。

 犯罪を侵したのは個人であり、個人を対象にすることが、情報社会の基準である。我が国では、いまだ農耕社会の一族懲罰的な感覚が残っており、個人に焦点をあわせることが出来ない。個人を血縁共同体から切り離すことが可能だと考えるから、教育の対象になるのであり、教育刑と懲罰は反対概念である。刑務所は犯罪者を懲らしめるための施設と考えるところからは、通常人のための住宅も充分な空間が実現できない。我が国の病院建築が、医療の提供者側からのみ見られて、患者の立場を忘れたように、住宅建築も無意識のうち管理者側から見がちである。

コラム−5:途上国では、刑務所も入る人間によって待遇が違う。上流階級の犯罪者と庶民では扱いが違う。上流待遇は刑務所内でも西欧と同じような人権が守られるが、庶民は虫けらのように扱われる。インドでは刑務所そのものが違う。我が国でも、身よりない囚人には扱いが冷たい。

 人間らしい生活が送れる刑務所、そこには面会する場所も必要だろう。面会とは何か。誰と会うのか。社会復帰を考えれば、囚人の孤立化はさけて、社会との接点を作るべきである。また官給品としてではなく、生活の必需品を入手できなくてはならない。売店でいいのか、スーパーが必要か。学習の場も必要だろう。成人にとって学習とは何か。拘束されること以外、囚人といえども通常の人間と違いはない。

 誤解されると困るので、確認しておくが、住宅は刑務所と同じだと言っているのでもないし、住宅を刑務所のようにせよと言っているのでもない。時代は、特殊な部分だけ残すことは許さず、最も隠したい部分が先端的な部分の進歩を阻む。だから、特異な生活空間である刑務所を考えることによって、近代が生み出した住宅が理解できる。刑務所に収監されている人には、最も弱い人権しか届かない。その環境を考えることが、平常人にとっても豊かな住宅計画を生むのである。              −了−


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