21世紀の家族像と住宅    2/3   1997.9.12.

 ここから我が国の近代にはいる。戦前の住宅は、農耕社会の生活規範に拘束されていたため、農耕社会の改良型が多い。もちろん中廊下型とか、玄関の近くに応接間や女中部屋をつけた住宅などがつくられるが、それは我が国の住宅として一般解とはならなかった。我が国の近代は明治から始まるが、戦前までその産業基盤は農耕社会にあった。

 戦前には、農業従事者は50%だった。完全に工業社会へと移行するのは、戦後しかも1950年後半になってからである。住宅は産業構造と連動しており、農業が支配的な社会では、農業が要求する住宅をつくらざるをえなかったので、洋風住宅は特殊解に留まった。現実の変化が先行し、人間の意識はなかなか変化しない。目白で金魚を飼った人を、思い出して欲しい。

コラム−1。近代で公衆なる概念ができ、今日に言う公衆道徳が出来た、と思う。唾や胆を吐く、手鼻をかむ、立ち小便(男女とも)をする、物を投げ捨てる、といったことが悪いことになる。人間が自然から離れたので、農耕社会とは異なったマナーが生まれた。東南アジアでは、コーヒーのテイクアウトはヴィニールの袋に入れる。その投げ捨ては自然に帰らないので、環境破壊の元凶になる。

 戦後になって、農業国であることを止め、工業国を指向した。戦争による都市の被災と、復員が重なって、都市において大量の住宅供給が必要になり、住宅の一般解を求めた動きが始まる。しかし、住宅の一般解という発想自体が工業社会のものであり、規格化による大量生産を背景としていた。

 言うところのプレファブ住宅が工業社会の代表住宅なのではなく、人間の生活を規格化しようという発想自体が、工業社会のものだった。その実作として生まれたのが、1955年(昭和30年)に設立された住宅公団の建築群である。食寝分離をうたった集合住宅は、夫婦と子供2人という標準世帯を設定した。ここでは核家族が前提とされ、工業社会の家族理念に適合したものであった。

 前述のように、農耕社会の住宅は間取らないがゆえに、誰か特定の人間のための部屋をつくらない。家全体が誰のための空間であり、誰のための住宅でもなかった。農耕社会では、農作業のための空間が屋内に必要だったが、個人なる概念は存在しなかったから、個室がなくても生活ができた。

 工業社会では、生計の単位が家から夫婦に移ったので、夫婦のための場として、内部空間が区画され始めた。工業社会の産業構造は、家での生産労働を要求していなかったので、生産が規定する家の構造は無視できた。工業社会になって、住宅が人間の恣意に従うようになった。

 住宅公団によって提供された住宅で注目すべきは食寝分離よりも、農耕社会に一般的だった大家族ではなく、核家族=標準世帯という概念を下敷きにしたことである。工業化の進展と共に家族形態が変わると信じられており、大家族から核家族への変化は必然だと見なされていた。そのため夫婦の寝室と、いくつかの個室という理念だった。


 江戸時代そして戦前と、5.5人前後で推移してきた家族構成員の数は、1955年から減少を始め現在では2.9人を割った。1955年当時、最も多かった4人家族は、1980年まで伸び続けたが、1980年から減少し始め、現在では1人世帯が最も多い。もはや2人世帯にも抜かれそうである。

 その間、1人あたりの国民所得はふえ、我が国は裕福になり、住宅の面積は拡大の一歩をたどってきた。そして最近の公団住宅は、100uを越えるものまで現れてきた。最近では特別室を加えるなどしているが、設計の基本理念は核家族を前提としたままである。

コラム−2。農耕社会では何処に、どう寝たか。寝る場所が決まってなかったと思う。寒いときは布団に潜り込んだが、寒くなければその場にゴロだった。何を着て寝たか。寝るために着替えることはなかった。寝間着という概念がないから、パジャマという部屋着(=スウェット)で近所に出る。香港のパジャマ娘は有名だったし、ホテルの廊下は部屋内だから、ステテコで歩くおじさんがいる。

 核家族とは、1人の個人=男性とその扶養家族たちというのが基本理念であり、住宅はそれを反映して男性+妻(男性の従属者)の部屋と、半人前の子供たちの部屋から成り立っていた。そのため、パブリックな空間と主寝室+個室という構成だった。配偶者以外の異性を寝室へ入れるのは、スキャンダルとなった。ここで、ホテルを思いだして欲しい。1住戸の大きさが変わっても、核家族を前提とする限り、その設計思想は変わることはない。

 長い前置きだったが、ここからが今日の本題である。情報社会を前にして、核家族が解体過程に入った、と思う。農耕→工業→情報は、土地→物→事(情報)と対応しており、物中心の生活から、情報中心の生活へと、今社会は変わりつつある。家族もそれに連れて、大家族→核家族→単家族へと変わる。詳しくは「「核家族から単家族へ」を読んで欲しいが、社会の変化に対応して住宅も変わる。

 単家族なる概念を、「カジノ 1995」という映画を例に紹介しながら話を進める。

 1970年代の話。田舎のチンピラ・サム(ロバート・デ・ニーロ)が、ラスベガスのカジノの支配人を勤めることになる。サムのカジノ経営は順調。ある日、サムはカジノに巣くう女ギャンブラーのジンジャー(シャローン・ストーン)にほれこみ、強引に結婚する。裕福で平穏な日々が過ぎて行く。サムの稼ぎによる贅沢な結婚生活も、違法すれすれとはいえ自力で生き、緊張の毎日を過ごしてきた彼女には退屈になる。サムは、典型的な良き夫。彼には非の打ちどころがない。出口のないストレスに襲われる。

 専業主婦は男性に養われ、何不自由なく暮らしていたが、彼女たちは何か手ごたえのなさを感じ始めていた。生きる手ごたえがないのは、養われている限り、どんな専業主婦でも同じである。裕福な専業主婦は、羨まれる境遇にあるから、精神的な悩みは理解されにくい。裕福なほど理解されない。理解ある夫にめぐまれ、贅沢な暮らしをして、いったい何が不満なのだと言われる。悩みの本質は、本人にも判らない。ただ、悶々とするだけ。おずおずと手をだすことは失敗ばかり。無力さに絶望的になる。いくら裕福でも、今の生活を変えることはできない。

 貧乏な者には、生きることを精神的に悩む必要はない。今日を生きるだけで、毎日が忙しく過ぎていく。裕福になってはじめて、精神的な悩みを悩める。精神的な悩みは、贅沢である。精神的な悩みは、貧乏だった時代には少数の高等遊民のものだったから、精神的な悩みに社会的な共感が成立しなくても良かった。社会全体が裕福になった。途上国からは贅沢といわれようとも、悩みは解決されねばならない。

 映画から現実の話。現代の日常生活そして男性たちは、妻である女性の行動を拘束しない。平等意識は強いから、彼女たちの自由を許す。自由になるお金と時間を使えば使うほど、イライラは募り、彼女の自己認識は遠のく。優秀で自立心があって完璧指向の女性ほど、専業主婦の真綿の拘束に鬱屈する。彼女が自己認識を獲得するのは、フルタイムで働くこと以外にないのだが、職場から長く離れた彼女は、職場労働に身を投じる契機がつかめない。

 現在の我が国で、高級を稼ぐ夫のお金で生活する女性=その多くは高学歴だが、彼女たちが生きる手応えを求めている。アメリカの1970年代が、いまの我が国である。単家族とは離婚のすすめではない。単家族とは男女が別居することではない。誰でも自分の生活は自分で糊する家族、すべての成人が自分の生活費を自分で稼ぐ家族形態、それが単家族である。

 結婚によってジンジャーの収入がなくなり、サムに養われる形、つまり核家族になったわけで、ジンジャーが働き続ければ破滅の道へは進まなかった。彼女にはいつまでも生きる手応えがあった。子供がいなかったことは、破滅を早めただけで、本質的な違いはない。子育ては短期間で終わるので、いずれ同じ結果になる。子育ては疑似手応えがあるので、むしろ事態を屈折させる。

 養われている人間には、自立した人間を養育できない。おばあちゃん子は三文安だとしたら、専業主婦の子育ては、自立心のない子供をつくる。専業主婦に育てられた子供は、子供は三文安であり、情報社会を担えない。核家族を温存することは、いまや破滅への道である。単家族とは、単身生活者を意味するのではなく、自分の生活費を自分でまかなう人間がつくる家族という意味である。それゆえ同性の同居も、三人以上の同居も、もちろん男女の同居も単身者も、個別の収入がある限りすべて単家族である。

 初期工業社会までと情報社会では、子供の意味が変わった。病院や社会福祉のなかった時代、子供は労働力だったし、親の老後の面倒を見る不可欠の物だった。豊かな社会では、子供は労働力ではなくなったし、年金や蓄財により、子供に老後を当てにしなくても済むようになった。そのため、必要不可欠だった子供は、愛玩の対象としてのみ存在し、存在意義が問われるようになった。子供は愛玩の対象だとすれば、生んでも生まなくても良いのだから、出生率は低下する。


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