「ゲイの誕生」トークセッション

 本論は、2013年9月19日に芳林堂高田馬場店において、伊藤文学さんと行ったトークセッションの冒頭で話したものです。最後まで熱心に聞いて下さって感謝しています。

 最近では海外におけるゲイの結婚などが話題になり、ゲイの誕生は性、つまりセックスの問題だと見なされています。しかし、これは間違いだと思います。
 ゲイの誕生はセックスの問題ではなく、年齢秩序、つまり高齢者が偉くて、若者は偉くないという、年齢秩序とその崩壊の問題です。

 ゲイの誕生に入る前に、なぜ建築の設計を生業(なりわい)とする者が、「ゲイの誕生」を上梓するに至ったのかを、簡単に述べたいと思います。

 建築には住宅という分野があり、住宅は家族を対象にして設計します。そのため、設計のかたわら家族について考えてきました。
 最近、家族が多様化したとよく言われます。多様化したとは、いつに比べて多様化したと言うのでしょうか。高度経済成長期を過ぎると全員が結婚し、お父さんとお母さんそれに子供2人という家族を、標準世帯と想定するようになりました。おそらくこの頃に比べて、多様化したというのでしょう。

 しかし、高度成長期以前のことを調べてみると、家族は多様化したと言われる現代よりはるかに多様でした。

 たとえば、太宰治は明治42年に生まれ昭和23年に死んでいますが、11人兄弟の10番目として生まれて、30人以上の使用人がいた家庭で育っています。
 江戸時代の話になりますと、武士の家族は、お父さんとお母さんそれと子供以外にも、お爺さんお婆さんがいたり、足軽とか乳母や下男下女がいたりしました。その上、お母さんが2人なんてこともありました。つまり、側室と呼ばれる、もう1人のお母さんがいたのです。お殿様ともなれば、側室が何人もいました。

 では、当時はすべての家族が大家族だったのでしょうか。そんなことはありません。武士の次男・三男は、部屋住みと言って一生独身で終わる人も多かったし、農家の次男・三男も養子にでないかぎり、一生独身だったようです。独身者は当時の人口のおおむね30%くらいだったといわれています。つまり、全員が結婚したわけではなかったのです。

 側室と一緒の生活とか、数十人の共同生活があった一方で、独身者が人口の30%もいながら、家族の人数は平均すると5〜7人くらいだったと言われています。ですから大小取り混ぜて、じつに様々な家族が存在したと言うことです。

にもかかわらず、なぜ戦前や江戸時代は大家族だったというイメージがあるのでしょうか。
 かつて裕福な農家は大勢の使用人などをかかえて、大きな家族を営んでいました。また、武士の家では、禄高に応じて雇う足軽の数まで決まっていました。ですから、禄高の大きい者は必然的に大所帯になりました。
 つまり、農業が主な産業である社会では、大きな家族が豊かさの象徴だったから、大家族が理想の家族形態とされていたのです。

 戦後になると、働く男性はサラリーマンが圧倒的に多くなっていきます。しかし、この時、女性には男性のように稼げる場所が用意できませんでした。そのため、稼ぐ男性と稼ぎのない女性のカップルである核家族が、あるべき家族の姿となっていきます。ここで標準世帯がもちだされて、単一の家族イメージができあがったのでしょう。

 アメリカでは1970年頃から、職場にコンピューターが普及し始めます。すると男女を問わず、個人に対して職場が開かれるようになりました。ここで女性が稼げるようになり、女性は結婚しなくても生活できるようになりました。

 では、家族が多様化したと言う最初の話に戻って、ふたたび高度成長期以前のような多様な家族に戻るのでしょうか。もはや側室が認められる時代ではありませんし、今後、太宰家のような数十人での共同生活は想像できません。ですから、たとえ非婚者が増えても、家族の形態が多様化することはありません。

 稼ぎの単位が核家族ではなく、性を問わない個人となったので、今日の家族の形態は多様化というより個人化したというべきです。このように個人化した今後の家族形態を、ボクは<単家族>と名付けています。単家族については触れませんが、詳しくは丸善新書の「核家族から単家族へ」を参照してください。

 ここで、やっとゲイについて語れるところに来ました。最近でこそゲイの結婚を認める国も増えてきましたが、もともと、ゲイは結婚制度の外にいました。ゲイは対=カップルになりようがなく、個人でしかなかったのです。

 ゲイは同性愛者です。同性愛者なら昔からいたじゃないか、という疑問が湧くでしょう。たしかに、古代ギリシャの「饗宴」や、我が国の「葉隠」を読んでもわかるように、少年愛とか男色と呼ばれる同性愛者は大昔から世界中にいました。しかし、この時代の同性愛は、ゲイという現代の同性愛とは違います。そこで、むかしの同性愛つまり少年愛や男色などを、まとめてホモと呼んでみます。

 ではホモとはどんな同性愛だったかというと、成人男性同士ではなく、成人男性と思春期にある若年男性との性愛関係です。しかも、成人男性が挿入するほうで、若者は受け入れるほうと立場が決まっていました。立場が逆になることはありません。しかも、この関係は若者が成人すると終わるという、期間限定の性愛関係でした。そして、受け身だった若者が成人すると、こんどは立場を入れ替えて、別の若者を相手に、自らは挿入する者として性愛関係をつくったのです。

 織田信長と犬千代(=前田利家)のホモ関係は有名です。しかし、2人はホモの関係にありながら、他の女性とも性的な関係をもって、大勢の子供を残しています。ホモにとって、女性の妾を持つと同時に、男妾を持つことは矛盾ではありませんでした。若年男性と関係しながら、同時に女性ともセックスを楽しんでいる、それが当時のホモでした。

 今では男性間の性愛行為を同性愛といって、女性相手の異性愛と質的に違うものと見なしています。しかし、江戸時代には、男性が遊女を買いにいくか、陰間という若い男性を買いにいくか、迷ったりする話が残っているくらいです。ですから、かつての成人男性にとっては、相手が女性でも若年男性でも同じ意味の性愛行為でした。相手が男性だという特別な意識がなかったのです。つまり、ホモ行為をしたからと言っても、ホモという別種の男性というより普通の成人男性でした。

 上記のような背景だったため、同性愛という概念がありませんでした。もちろんバイ・セクシャルという概念も生まれようがありませんでした。ちなみに同性愛(ホモ・セクシャアル)という言葉が、初めて使われるようになったのは1890年だ、とイギリスの歴史家アラン・ブレイは言っています。

 工業化以前の社会では、ホモ行為は何ら社会的な非難の対象ではありませんでした。ソクラテスは少年の尻を追いかけて多忙だったと言われていますが、決して日陰の行為をおこなっていたわけではありません。もし、ホモ行為が非難すべきものだったとしたら、ソクラテスの行為を非難する記録が残っていたでしょう。我が国の「葉隠」でも、ホモ行為の相手になる心構えがまじめに説かれていますから、やはり肯定されていたのです。

 ホモ行為のシーンを描いた絵画はたくさん残っていますが、高齢者が受けに廻っている絵画はありません。高齢者が与える者で若者が受ける者という、年齢秩序にそった固定した性愛関係こそ、ホモの真髄として社会的な承認を受けていました。

 男色に対して、成人男性と女性との関係は女色といいます。女色は子孫繁栄が目的だとすれば、男色の目的は何だったのでしょうか。
 
 工業化以前つまり前近代には、学校もなかったし図書館もありませんでした。紙が高価で、文字の価値が低かった時代です。この時代でも、お城の建築方法や戦争の仕方、農業の方法などなど様々な文化がありました。

 当時、文化を体得する方法は何かというと、修業といった形でそれを経験することでした。同じことを何度もくり返して、身体に染みこませることが修業です。長い修業の中から知恵をつかみ取った、その結果が文化となります。長い経験の過程で身体を使って、くり返すこそこそ知を育む道でした。
 長い経験をもった者とは高齢者でしたから、高齢者の知恵が受けつぐべき知的財産だったわけです。敬老の日とか、年功序列の賃金体系とか、尊属殺人の重罰規定などは、高齢者の知恵への敬意の名残です。では、経験から生まれた文化を、どうやって次の世代に伝えたのでしょうか。それがホモ行為だったのです。

 文字が重要ではない社会では、文化は人から人へと直接に伝達されます。当時は学校制度がなかったので、1対1という相対のなかで肉体を媒介にして、知恵や芸能・技術などが承継されました。今でも伝統芸能の世界ではそうですね。
 高齢者が文化的な上位者でしたから、文化はセックスを媒介にして高齢男性から若年男性へと受け継がれたわけです。反対に、高齢者が受け身になると、文化の流れが逆転してしまいます。文化が繁栄する方向ではなく、縮小する方向へと流れてしまいますから、高齢者が受け身になることはタブーだったのです。

 現代のゲイについては後で述べますが、ホモ行為というのは、成人男性が若年男性に対して愛情と身体をもってする教育でした。技術や芸能つまり文化の担い手の多くは男性でしたから、ホモ行為は男性文化の継承行為だったと言っても過言ではありません。もし、女性が文化を担っていたら、成人女性が若い女性を相手にした性愛行為があったでしょうし、男色に相当する言葉が残ってきたはずです。
 
 ゲイとホモは違うと言いました。ではなぜ、ホモが消えてゲイの誕生になったのでしょうか。
 16〜17世紀になると、近代への胎動が始まります。活版印刷が発明されて、当時すでに普及していました。1637年にはデカルトの「方法序説」が出版されます。万有引力の法則は、1687年にニュートンによって発見されました。
 1750年頃から1800年頃にかけて、産業革命(さんぎょうかくめい、英: Industrial Revolution)がおこります。1789年には、自由・博愛・平等を求めたフランス革命が勃発しています。

 近代への胎動というのは、長い修業を積むことではなく創造的な頭脳労働によって、それまでの文化を疑い・否定することから出発しました。神殺しとか父殺しという言葉を聞いたことがあるとおもいますが、神や父が象徴したのは、経験に支えられた古い文化の体系であり、古い政治体制です。
 つまり近代を切り拓いたのは、年長者に従って経験を深めることによってではなく、個人的な思考に基づいたものでした。新たな発想とか思考というのは若者の特権です。ここで年齢秩序が崩壊を始めました。そのため、この頃から年齢秩序にしたがったホモは、消え入るよう運命づけられたのです。

 年齢秩序に従った固定的な性愛関係ではなく、若者が挿入する立場になるという年齢秩序に逆らった性愛関係が、近代の曙(あけぼの)の中でホモの間にまじり始めた。つまりゲイが産声(うぶごえ)を上げたのです。ゲイには上下関係はなく、当事者は横並びですから、どちらが挿入しても良いし、受け身になっても良い、自由な関係です。
 
 しかし、デカルトやニュートンが生まれたと言っても、古い上下の年齢秩序が社会全体を支配しています。あのニュートンですら錬金術にはまっていました。年齢秩序というのは、当時のすべての人々が共有していた価値観です。
 新たな秩序はまだ普及していません。年齢秩序に替わる秩序が普及しないままで、年齢秩序を取り払うわけにはいきません。既存の秩序が機能不全になると、古い秩序しかない社会では、より強く古い秩序にしがみつこうとします。

 近代に入って時代が下るに従って、ゲイを内包した同性愛への嫌悪は厳しさを増していきます。社会すべての人が年齢秩序に生きていますから、支配者や政府ではなく、普通の人がゲイを許容しないのです。

 アラン・ブレイの「同性愛の社会史」によると、次のように言っています。
 1600年代の終わり近くまでは、男色の訴追は限られた個人に対して行われていた。しかし、1700年代の大迫害は、かつて前例のないほど破壊的であり、何度も大量の逮捕者を出したばかりか、大喜びする群衆のまえで処刑まで行われた。

 年齢秩序という上下関係を横並びにしようというのですから、ゲイの誕生は人間関係の根底的な変革でした。それまで上下関係をひっくり返す下克上はありました。しかし、人間関係を横並びに変えようとしたのは、ゲイが歴史上初めてです。つまり革命だったのです。未完成の革命を企てた者には、極刑が待っているのは世界史の常識でしょう。
 ゲイを内包してしまった同性愛は、1969年6月28日のニューヨークにおけるストーンウォールの反乱まで、これから徹底的に弾圧されていきます。

 1970年代に入ると、コンピューターが普及することによって、人間関係が上下から横並びの関係、つまりネットワーク的な関係に変化してきます。年齢秩序にかわる横並びの秩序が機能し始めたのです。ここでゲイを支える経済・社会的な基盤が整い始めます。そのため、年齢秩序に従ったホモではなく、横並びのゲイが社会のおもてに登場してきます。
 1985年にエイズで死んだロック・ハドソンのカムアウトが、確信犯的なゲイの登場だったでしょうか。現代の多くのゲイは、女装をしたりオネエ言葉を遣ったりしません。普通の男性の格好をし、男性の言葉を遣っています。男性のままで男性を愛する男性、それがゲイです。

 約300年前近代の入り口で、年齢秩序が崩壊し始めました。その結果、工業社会が実現して、豊かな社会へと踏みだしました。そして、女性が台頭し始め、同時にゲイが誕生しました。女性運動は年齢秩序に参入しようとしたので、死刑になるといった過酷な弾圧はありませんでした。しかし、ゲイは人間関係を根底的に変革しようとしたので、横並びという代替秩序が普及するまで、約300年間も弾圧され続けてきました。
 
 年齢秩序が崩壊し、個人の思考が開放されました。稼ぎの単位が個人化するからこそ、女性が自由になり、ゲイが誕生したわけです。今後、インターネットなどの普及によって、人間関係はますます横並びになっていきます。ですから女性の台頭と同様に、ゲイが増えることはあっても減ることはありません。

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