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学びは智恵の伝達から 地球上の、そして歴史上のどんな社会でも、次世代に伝える無形の財産、つまり生きるための知識や技術を持っている。
文字のない狩猟採集社会にも、もちろん農耕社会にも、伝えるべき知識や技術は沢山ある。 家畜の世話の仕方や稲の植え方に限らず、いつ田植えをしたら良いか等は、先達つまり前の世代から教えられた。 日常的な人と人の触れ合いのなかで、技術や知識は教え伝えられたから、教科書は存在せず文字は不要だった。 農耕社会わが国で言うと江戸時代もしくは戦前まで、
子供は自分の身の回りの始末が出来るくらいの年齢になると、大人より小さいが同質の労働を担わされた。 生長とともにその量は増え、成人したときは、他の大人とまったく同じ働き手に育っていた。 働くことを通じて、次世代の教育が行われた。 長い体験から獲得した智恵の伝達、つまり一対一でなされる教育の構造は、農耕が主な産業である途上国では、今でも変わってはいない。
学校の誕生 農耕社会も終盤になると、自然のなかでの体験から生まれた智恵とは、異なった種類の知識や論理が生まれた。
それらが社会の生産活動に、大きな力を発揮するようになった。 機械の発明と大量生産をめざす工業社会の始まりである。 ここでの知識は、日々の生活を共にするなかで伝達された以前のものとは異なり、その理解には別種の新たな能力が必要だった。 それは人工的な記号、つまり文字や数字を理解する力である。 農耕社会までの生産活動には、文字が必要とは限らなかったが、工業社会の生産活動には識字能力が不可欠となった。 その上、演算能力も必要になった。 これらを身につけないと、充分な労働力になれない工業社会が到来した。
生産面で大量生産が始まったように、工業生産を担う人間もまた大量に必要だった。
この育成には、日常的な人間の触れ合いでは間に合わなかった。 そこで日々の具体的な労働から切り離して、大量の人間を一度に教育する組織ができた。 西欧で17世紀頃に生まれた、それが学校である。 近代的な工業生産を始めたところでは、どこでもきそって学校を建築し始めた。 西欧諸国に遅れはしたが、近代化を始めた我が国も例外ではなかった。 1872年(明治5)に学制が公布され、全国を8大学区に分けて、近代的な工業社会の学校制度が動き出した。 しかしこの時は、国民全員が受ける義務教育でもなかったし、無料教育でもなかった。 義務教育化へ 江戸時代まで子供は働き手であり、小さいながらも家計の支え手の一人だった。
だから、子供を学校へ通わせることは、子供の働きが無くなることを意味し、親たちは決して歓迎しなかった。 しかも親たちは、学校教育が与える無形の財産は、自分たちの農業に役立つかどうか懐疑的だった。 現金収入の少ない農耕社会では、庶民階層の親たちにとって、学校はやっかいなものとして登場した。 後年になって親たちの懐疑は的中し、長期にわたり学校教育を受けた者の多くは、親たちの営む農業に就くことはなかった。 明治政府は、学校が高級な労働力の育成に、きわめて効率的であることを充分に理解しており、
その普及には並々ならぬ決意だった。 1886年(明治19)になると、それまでの教育令に代わって学校令を公布し、小学校に尋常科と高等科を設置した。 尋常小学校は四年制の義務教育とし、しかも大変な費用がかかることを承知で、同時にその無料化に踏み切った。 遅れて近代化に乗り出した我が国は、先進諸国に必死で追いつかなければならなかった。 だから、子供を学校へ通わせぬ家庭には、巡査を差し向けてまで、子供を家庭から引き出した。 |
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