情報社会への移行と生涯学習  1998.8−記

学びは智恵の伝達から

 地球上の、そして歴史上のどんな社会でも、次世代に伝える無形の財産、つまり生きるための知識や技術を持っている。
文字のない狩猟採集社会にも、もちろん農耕社会にも、伝えるべき知識や技術は沢山ある。
家畜の世話の仕方や稲の植え方に限らず、いつ田植えをしたら良いか等は、先達つまり前の世代から教えられた。
日常的な人と人の触れ合いのなかで、技術や知識は教え伝えられたから、教科書は存在せず文字は不要だった。
 農耕社会わが国で言うと江戸時代もしくは戦前まで、
子供は自分の身の回りの始末が出来るくらいの年齢になると、大人より小さいが同質の労働を担わされた。
生長とともにその量は増え、成人したときは、他の大人とまったく同じ働き手に育っていた。
働くことを通じて、次世代の教育が行われた。
長い体験から獲得した智恵の伝達、つまり一対一でなされる教育の構造は、農耕が主な産業である途上国では、今でも変わってはいない。
小学校の設置数の推移
  総数    公立  私立   教員数    児童数
1873年(明治 6) 12,597 7,998 4,599 25,531 1,145,802
1877年(明治10) 25,459 24,281 1,178 59,825 2,162,962
1882年(明治15) 29,081 28,443 638 84,765 3,004,137
1887年(明治20) 25,530 24,945 585 56,836 2,713,391
1892年(明治25) 23,627 23,064 561 59,796 3,165,410
1897年(明治30) 26,860 26,361 497 79,299 3,994,826
1902年(明治35) 27,154 26,827 325 109,118 5,135,487
1907年(明治40) 27,125 26,897 225 122,038 5,713,698
1912年(明治45) 25,673 25,517 152 158,601 7,037,430
1917年(大正 6) 25,629 25,462 163 169,460 7,884,536
1921年(大正10) 25,562 25,421 137 189,476 8,872,006
1926年(大正15) 25,490 25,367 119 216,831 9,287,662

学校の誕生
−工業社会の歩み

 農耕社会も終盤になると、自然のなかでの体験から生まれた智恵とは、異なった種類の知識や論理が生まれた。
それらが社会の生産活動に、大きな力を発揮するようになった。
機械の発明と大量生産をめざす工業社会の始まりである。
ここでの知識は、日々の生活を共にするなかで伝達された以前のものとは異なり、その理解には別種の新たな能力が必要だった。
それは人工的な記号、つまり文字や数字を理解する力である。
農耕社会までの生産活動には、文字が必要とは限らなかったが、工業社会の生産活動には識字能力が不可欠となった。
その上、演算能力も必要になった。
これらを身につけないと、充分な労働力になれない工業社会が到来した。
 生産面で大量生産が始まったように、工業生産を担う人間もまた大量に必要だった。
この育成には、日常的な人間の触れ合いでは間に合わなかった。
そこで日々の具体的な労働から切り離して、大量の人間を一度に教育する組織ができた。
西欧で17世紀頃に生まれた、それが学校である。
近代的な工業生産を始めたところでは、どこでもきそって学校を建築し始めた。
西欧諸国に遅れはしたが、近代化を始めた我が国も例外ではなかった。
1872年(明治5)に学制が公布され、全国を8大学区に分けて、近代的な工業社会の学校制度が動き出した。
しかしこの時は、国民全員が受ける義務教育でもなかったし、無料教育でもなかった。

義務教育化へ

 江戸時代まで子供は働き手であり、小さいながらも家計の支え手の一人だった。
だから、子供を学校へ通わせることは、子供の働きが無くなることを意味し、親たちは決して歓迎しなかった。
しかも親たちは、学校教育が与える無形の財産は、自分たちの農業に役立つかどうか懐疑的だった。
現金収入の少ない農耕社会では、庶民階層の親たちにとって、学校はやっかいなものとして登場した。
後年になって親たちの懐疑は的中し、長期にわたり学校教育を受けた者の多くは、親たちの営む農業に就くことはなかった。
 明治政府は、学校が高級な労働力の育成に、きわめて効率的であることを充分に理解しており、
その普及には並々ならぬ決意だった。
1886年(明治19)になると、それまでの教育令に代わって学校令を公布し、小学校に尋常科と高等科を設置した。
尋常小学校は四年制の義務教育とし、しかも大変な費用がかかることを承知で、同時にその無料化に踏み切った。
遅れて近代化に乗り出した我が国は、先進諸国に必死で追いつかなければならなかった。
だから、子供を学校へ通わせぬ家庭には、巡査を差し向けてまで、子供を家庭から引き出した。

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