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縦の組織から横の組織へ 端末の自立とは、上下関係がなくなり、すべての人間が横並びになることである。
それは誰でもが情報に近づき、情報を扱えることでもある。 しかし、情報を公開しその取り扱い方を普及させること、 いいかえるとコンピューターになじむことは、既存の権威を転倒させもする。 工業社会の初期、無学な大衆に学校教育を与えることは、良質な労働者を生み出すためには不可避だった。 が、それまでの体制の変革をも教えることだった。 情報の解放、言い替えるとコンピューターの普及は、それと同じ現象を発生させる。
コンピューターを高速通信回線で結んだネットワークは、人間の上下関係が崩れ、無限に横並びとなった象徴である。
ネットワーク社会では、人々は管理されるのを嫌って、個人の世界を構築する。 大型コンピューターがサーバーと呼ばれる奉仕者と化したように、メインフレーム的な発想は主役の地位を失う。 そのためコンピューターの普及は、中央統制的な権威の構造を崩壊させる。 必然的に、ツリー型組織の会社や、教卓と学生の机が向かい合う定型的な机の配列をもつ学校は、情報社会に対応できない。 情報社会の生産の場は、肉体労働から頭脳労働へと転換する。
精神的な活動である頭脳労働は、根元的に自由な状況でしか成立しないから、 中央統制的な画一化された管理によっては、その果実を入手できない。 人間の精神を自由へと解放せず、情報社会に転換しないと、身体障害者や女性の社会進出は止まるし、 生産が低下して社会福祉は崩壊する。 そして、諸外国との競争に破れ、我が国だけが旧式の工業社会に取り残される。 それは工業社会の暴力的な略奪の前に、自らも工業社会化することなしには、独立を守れない農耕社会の人々と同じ体験をすることである。 生涯学習の社会へ
農耕社会から工業社会への転換は、不動の土地から可動の物への労働対象の移動だった。
それは生産を飛躍的に向上させたが、同時に社会の安定性を損なった。 情報社会へは物から知への移動である。物は堅く重く安定しているが、 知は軽く無色透明であり、不安定で限りなく浮遊する。 今また生産性の向上をめざして、社会は再び安定性を失う。 もはや経験が知の質を保証しないので、老成なる言葉は死語となって年功序列は崩壊し、経験や年齢に裏付けられた権威は失墜する。 農耕社会から工業社会の転換には、寺子屋のような個別的な形では対応できないがゆえに、
学校という画一的な国民教育が発足した。 より高級な労働力を生み出すためには、狭い利害に縛られた企業の社内研修といった、個別学習では対応できない。 求められているのは、独創的で抽象力をもった論理的な思考=コンピュテーションの体得である。 言いかえると、数学的な方法で決定したり、数を使った論理的な方法で考えることを身につけた、 自由でより高級な働き手のための遊学である。 各自の知的な好奇心を満たす、つまり浮遊する頭脳活動のために、社会的な合意に基づいた制度が不可欠である。 それは、中央統制や管理といった発想とは無縁で、しかも開放的で楽しい知的遊戯の場として設定される。 工業社会も終盤にいたり、学校という期間限定的な先行投資型の教育システムは、
より一層の生産性の向上には対応できなくなった。 情報社会では、期間限定の学校はその使命を終え、生涯学習の若年部門へと発展的に姿を変える。 精神的な活動たる知に限界はない。 だから情報社会の知的遊学は、農耕社会の見習いや工業社会の学校教育と異なり、青春を同伴者としながら一生にわたって続くのである。 参考図書 ルソー「エミール」岩波文庫 J・デューイ「学校と社会」岩波文庫 P・アリエス「<子供>の誕生」みすず書房 佐藤秀夫「ノートや鉛筆が学校を変えた」平凡社 |
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