情報社会への移行と生涯学習  1998.8−記

縦の組織から横の組織へ

 端末の自立とは、上下関係がなくなり、すべての人間が横並びになることである。
それは誰でもが情報に近づき、情報を扱えることでもある。
しかし、情報を公開しその取り扱い方を普及させること、
いいかえるとコンピューターになじむことは、既存の権威を転倒させもする。
工業社会の初期、無学な大衆に学校教育を与えることは、良質な労働者を生み出すためには不可避だった。
が、それまでの体制の変革をも教えることだった。
情報の解放、言い替えるとコンピューターの普及は、それと同じ現象を発生させる。
 コンピューターを高速通信回線で結んだネットワークは、人間の上下関係が崩れ、無限に横並びとなった象徴である。
ネットワーク社会では、人々は管理されるのを嫌って、個人の世界を構築する。
大型コンピューターがサーバーと呼ばれる奉仕者と化したように、メインフレーム的な発想は主役の地位を失う。
そのためコンピューターの普及は、中央統制的な権威の構造を崩壊させる。
必然的に、ツリー型組織の会社や、教卓と学生の机が向かい合う定型的な机の配列をもつ学校は、情報社会に対応できない。
 情報社会の生産の場は、肉体労働から頭脳労働へと転換する。
精神的な活動である頭脳労働は、根元的に自由な状況でしか成立しないから、
中央統制的な画一化された管理によっては、その果実を入手できない。
人間の精神を自由へと解放せず、情報社会に転換しないと、身体障害者や女性の社会進出は止まるし、
生産が低下して社会福祉は崩壊する。
そして、諸外国との競争に破れ、我が国だけが旧式の工業社会に取り残される。
それは工業社会の暴力的な略奪の前に、自らも工業社会化することなしには、独立を守れない農耕社会の人々と同じ体験をすることである。

生涯学習の社会へ

 農耕社会から工業社会への転換は、不動の土地から可動の物への労働対象の移動だった。
それは生産を飛躍的に向上させたが、同時に社会の安定性を損なった。
情報社会へは物から知への移動である。物は堅く重く安定しているが、
知は軽く無色透明であり、不安定で限りなく浮遊する。
今また生産性の向上をめざして、社会は再び安定性を失う。
もはや経験が知の質を保証しないので、老成なる言葉は死語となって年功序列は崩壊し、経験や年齢に裏付けられた権威は失墜する。
 農耕社会から工業社会の転換には、寺子屋のような個別的な形では対応できないがゆえに、
学校という画一的な国民教育が発足した。
より高級な労働力を生み出すためには、狭い利害に縛られた企業の社内研修といった、個別学習では対応できない。
求められているのは、独創的で抽象力をもった論理的な思考=コンピュテーションの体得である。
言いかえると、数学的な方法で決定したり、数を使った論理的な方法で考えることを身につけた、
自由でより高級な働き手のための遊学である。
各自の知的な好奇心を満たす、つまり浮遊する頭脳活動のために、社会的な合意に基づいた制度が不可欠である。
それは、中央統制や管理といった発想とは無縁で、しかも開放的で楽しい知的遊戯の場として設定される。
 工業社会も終盤にいたり、学校という期間限定的な先行投資型の教育システムは、
より一層の生産性の向上には対応できなくなった。
情報社会では、期間限定の学校はその使命を終え、生涯学習の若年部門へと発展的に姿を変える。
精神的な活動たる知に限界はない。
だから情報社会の知的遊学は、農耕社会の見習いや工業社会の学校教育と異なり、青春を同伴者としながら一生にわたって続くのである。

参考図書

ルソー「エミール」岩波文庫
 農耕社会から工業社会へ入る時、人間存在が自然から離れることことを恐れ、<自然に帰れ>と叫ばれた。自然からより遠い情報社会へと転じる今、<自然に帰れ>=環境保護という声が再び台頭する。

J・デューイ「学校と社会」岩波文庫
 アメリカでは今世紀の初め頃から教育改革が起こり、権威主義と形式主義に安住した、机がきちんと並んだ伝統的な学校教育は変貌を遂げ始めた。

P・アリエス「<子供>の誕生」みすず書房
 人類の発生以来、子供は<小さな大人>として認知されていたが、農耕社会の徒弟修業から学校教育への変化は、<子供>という概念を生み出した。工業社会も終盤の1960年になり、本書によって<子供>がやっと発見された。

佐藤秀夫「ノートや鉛筆が学校を変えた」平凡社
 小学校では明治の終わりまで、和紙と筆それに石盤と石筆が筆記具だった。安価な洋紙や鉛筆の普及が、教えるシステムを変えたとすれば、コンピューターの普及は考える方法まで変化させるだろう。


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