少子化試論−人間を対象化する
2005.08

目   次
1.はじめに
2.人口増加の限界と労働力の必要性
3.工業社会と人口増加の始まり
4.人口減少と少子化の顕在化
5.第1次産業の従事者と特殊合計出生率の相関関係
6.最強の人間と観念の自立

1.はじめに
 少子化の影響が様々に論じられている。
これだけ少子化が騒がれると、むかしは人口が多かったように勘違いする。
安価で手軽な避妊や安全な中絶が普及していなかった時代には、人間がたくさん生まれて人口が多かったと錯覚しがちである。
出生率が高かった時代には、人口が多かったと思いがちである。
しかし、誤解しないで欲しい。
少子化の叫ばれる今日こそ、我が国の人口が、歴史上もっとも多い時代である。

 江戸時代の人口は、3000万人程度で推移し、ほとんど増減しなかった。
そして、明治に入ると人口は増え始めたのは事実である。
我が国は富国強兵政策のもと、侵略戦争へと突き進み、<産めよ殖やせよ>をスローガンにして、人口の増加へ邁進したといわれる。
我が国の近代は、戦争の歴史のように見えるので、人口の増加もつい戦争と関連づけて論じやすい。

 国や家制度存続のため、そして、家父長制維持のために、女性は子供を産むのが当然とされ、堕胎が厳しく禁止された、と論じられる。
あたかも女性は産みたくもない子供を、産まされてきたかのような論調も感じる。
たしかに、戦前は一人の女性が子供をたくさん生んだが、それでも人口は今より遙かに少なかった。
富国強兵政策や侵略戦争との関係で、人口問題を考察することは的を射ているだろうか。

 政府や企業は、なんとか少子化を止めようと躍起になっているが、少子化は一向に止まる気配を見せない。
そもそも少子化は困ったことなのだろうか。
また、在野の論客たちも、少子化について発言してるが、いずれも適切な提言ではないように感じる。
少子化を考察する基本的な枠組みを、多くの論者が誤っているように思えて仕方ない。
本論は、少子 化にかんする小さな試論である。

2.人口増加の限界と労働力の必要性
 江戸時代までの前近代が、多産・多死の時代だったことは良く知られている。
自然と人間が共生して、環境衛生に無頓着だった時代には、たくさんの子供が生まれたが、同時にたくさんの子供が死んだ。
7歳までは神のものといって、短い生命を諦めなければならないほど、乳幼児死亡率が高かった。
出生しても無事に成人できるか否かは、保証のかぎりではなかった。

奈良時代から現代までの人口の増加
人口の伸びは江戸時代の中期に停滞する。そして明治以降、人口は急激に増加した
 避妊が上手くできなかった時代、子供が生まれるのは神の御業であり、自然現象であるように感じる。
人口の増減には、人間の意志は介在できないようにも思える。
たしかに前近代にあっては、どこの社会も人口の伸びは緩慢であり、人口の推移をグラフに描くと、ゆるい右肩上がりになる。
その理由は次の理由から、 簡単に了解できる。

 人間は食べ物がないと生きていけない。
人間の食べるものは、人間が作り出す以外には方法がない。
自給自足を原則とし、物資の交流が少なかった時代では、食料はその地域で自給せざるを得なかった。

 食料の生産高は土地の広さに比例する。
土地から上がる生産高は限界がある。
その限界を超えた人数を養うことはできない。
1798年にマルサスの言ったごとく、土地の生産性の限界が人間の生きる数を決定していた。
だから耕作範囲が広がるのに応じて、そして、農業技術が進歩するのに応じて、人口はゆっくりとしか増加しなかった。

 東南アジアのように自然が豊かであれば、食物は無限に手にはいる。
自然が豊かな地域では、貧しい人はいても、餓死者はいない。
しかし、我が国のような温帯地域で食料を入手するには、人間の労働力が自然に働きかけ、持続的に自然の手入れをする必要があった。
我が国では農民と呼ばれる人間が、土地にはいつくばって汗を流した結果、人間はかろうじて食糧を確保できた。
だから、鎖国をしていた江戸時代のように、農業技術が限界まで発展し、耕地の開墾も行き詰まると、人口の伸びは止まらざるを得なかったのだ。

 食料生産のためには労働力が必要である。
農耕機械のなかった江戸時代まで、自然への働きかけつまり食料生産のための労働はすべて人力で行われた。
そのため、食料生産に見合った人口を確保しないと、必要な食料生産が維持できないことも、また真実だった。
食料生産と人口の多寡には、密接な相関関係があった。

 人口が少なくなると、労働者が減ってしまう。
堕胎や間引きが横行すると、必要な労働力が確保できなくなるので、江戸幕府はしばしば堕胎や間引きの禁止令をだしている。

 人間は子供で生まれ大人に成長するのだから、労働力を確保するためには、子供を産むことは不可欠だった。
大人はやがて老人となり、良質の労働力ではなくなる。
江戸時代には社会福祉や年金はなかったから、働けなくなった老後の備えは、各自が自力でしなければならなかった。
社会福祉など存在しなかった時代、大人自身の老後の生活を確保するためにも、自分で老後の対策を立てなければならなかった。
そのためには子供=次世代の労働力を産み育て、家という生産組織を維持して、自分の老後の備えとする必要があった。

 幕府にとって年貢を徴収するため労働力の維持が不可欠だとすれば、個人としての大人にとっても、次世代の労働力は必要不可欠だった。
次世代の労働力つ まり子供がいないと、大人自身の老後の生活が危機に瀕した。
子供は老後対策として不可欠だった。

 と同時に、食料生産の限界を超えた多すぎる子供は、不要どころか存在してはいけないものだった。
多すぎる子供は、大人たちが養えないのみならず、大人たち自身の生活を崩壊させる危険をはらんでいた。
この時代、人口を激変させないという、個人と社会の要求は一致していた。

 農業を主な産業とする社会を前近代と呼べば、前近代にあっては、食料生産のために人間が必要不可欠であると同時に、食料生産の限界を超える人間は不要かつ存在を許されなかった。
だから人口は増えもせず、減りもしなかったのだ。

 近代に入ると工場生産が起こり、食料の調達が土地の生産性という拘束から解放され始めた。
工場生産自体は、食料を生産するものではない。
しかし、工場での生産物が、食料と交換されることにより、食料入手の可能性は土地からだけとは限らなくなった。

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