21世紀の家族像と住宅   1/3  1997.9.12.

 物としての住宅、建物としての住宅を研究すると、住宅の物理的な特性が解明される。それは人間生活の場には違いないが、そこでどのような生活が営まれ、どのような人間関係が形成されていたかは、なかなか解らない。設備に関する部分、厨房とかトイレといった部分は、どう使われたかはすぐ解る。しかし、誰がどこに寝て、どこでどう生活したかまでは解らないことが多い。

 匠研究室が設計した住宅でも、こちらが想定したように使われていないと、建築主の生活研究が不足だったと反省したこともあった。しかし、それは個別的な機能を重視する、近代的な個室住宅観の呪縛によるのではないだろうか。ベットを用いない人々は多いし、布団に寝る彼等の空間の使い方を、特定するのはなかなか難しい。そう考えると、厨房とかトイレといった誰でもが同じ使い方をする部分は、最近になって登場したものである。

 住宅も、それぞれの時代の価値観を反映して作られてきたと考えて、21世紀の家族像と住宅を考えてみたい。


 未来の住宅を考えるには、まず歴史を振り返ってみる必要がある。我が国で古い住宅というと、民家や町屋である。民家(田の字型プラン)とか町屋は、同じ人間が住むのでありながら、現在の住宅とはかなり違う。何が違うって、1部屋1部屋の間仕切りがゆるい。部屋は襖とか板戸で仕切られ、昼間は開け放れて、夜だけ閉じられた。

 現在の個室住宅観から見ると、障子や襖で仕切ったのでは、部屋として区画したことにはならない。壁にできるにも関わらず、壁にしなかった原因は、壁にする必要性を感じなかったからだと思う。屋根の下、つまり雨や大風が吹き込まない空間、それが住まいなのであって、個人向けに部屋として区画され、音や気配が遮断されることは不要だった。当時は、それでも不自由ではなかった。近代以前の住宅に、個室が存在しない事情は、我が国に限らない。現在でも、東南アジアの農村部を旅行すると、大きな家が間仕切り壁で区画されずに、何人かの人々が住んでいる。

 我が国にとって、ヨーロッパは近代や近代化を学ぶ対象であっても、近代以前は興味の対象にならなかった。そのため、陽の部分としてのみ紹介され、陰の部分(=世界に共通な農耕社会の生活習慣である)は学ぶ対象ではなく、あまり知られなかった。ヨーロッパのどこの都市でも、例えばパリでは朝になるとアパートの窓から、汚水を道路へ撒いた話は、笑いの対象になるだけだった。

 最近、近代以前のヨーロッパの生活習慣が、少しづつ紹介され始めたが、それによると農耕社会だった時代、ヨーロッパでも個人に対応した個室なる概念はなく、何人もの人が1台のベットに寝ていた。住宅建築は、その土地で入手できる材料でつくるのが原則だから、世界各地どこでも材料による制限はあった。しかし、住宅を支える設計思想は、農耕社会である限り世界的に共通している。

 住宅は、社会と無関係に建築されているのではない。その住宅が建築される社会と密接に関連し、その社会が要求する価値に従って、建築されているはずである。日本、東南アジア、ヨーロッパの近代以前の住宅は、農耕社会からの要求という、共通の設計思想に支えられていた。そこで、農耕社会がどんな社会だったかを解明し、それが住宅にどう反映されたかを見れば、住宅の本質が解る。

 そこで、近代に入って何が変わったか、何が変わらなかったを検討すれば、少なくとも近代以前は解るのではないか、と思う。農耕社会における農村は、自給自足が原則である。しかし、農耕社会でも交換は行われていた。それを市場と呼ぶことは、世界中どどこでも同じである。

 マーケット、マルシェ、メルカード、スーク等と呼ばれ、名前は違うが市場は世界中にある。市場は常設ではなかった。何日かに一度とか、物日といわれる日に市が立った。それがやがて常設となり、今日の商店街=都市へと変わってゆく。生鮮食品を売る店は別として、市場は小規模な店が密集し、多くの店は商品は天井まで積み上げ、人でごった返すことが多かった。その雰囲気はアメ横を想像してもらうといい。

 現在の我が国では、商品には定価がついている。生産者つまり供給側が決めた値段をもとに売買されている。しかし市場では、値段は相対で決まり、1物1価ではなかった。値切るという言葉を知っていると思うが、値段は交渉によって決まるのであり、売り手が口にした値段は、希望値段をいったに過ぎない。そのシステムは現在でも農耕社会に行くと、まったく変わっていない。

 たとえばモロッコでは、日本人が買うときには、現地の人の10倍から交渉が始まる。モロッコを植民地にしていたフランス人は5倍から。そのあたりがメドである。食品などの日常品は、もっと掛け値が低いが、それでも買う人間によって値段は違う。貧富の差の激しい農耕社会では、金持ちは金が出せるのだから、高く買うのが当然という常識がある。売り手には、ぼっている=不当な利益を上げているという感覚はない。

 人によって対応が異なるのは、売買にかぎいらない。それはモロッコに限らず、農耕社会一般の属性だろうと思う。身分の高い人や年齢のいった人に敬語、尊敬が要求され、それに順応しているかぎり平穏な生活が保証され、無事に生きていくことができる。ヨーロッパでも我が国でも、農耕社会といわれるところでは、必ず身分秩序が貫徹している。近代化によって、身分秩序が崩壊し始めたように、市場も近代的な店舗へと変貌し始めた。

 近代化で、新たな商習慣が登場した。1700年の中頃、ロンドンで相対取引の売買が崩れた。フリント・アンド・パーマー社が、商品に値札をつけ、定価販売を始めた。フランスでもこれに少し遅れて、定価販売が始まる。1852年にはパリに、1866年にはロンドンにデパートができた。我が国で定価販売が始まるのは、それより早く1683年、越後屋の「現銀安売り掛け値なし」からである。現在では定価販売が普通である。

 定価販売の普及は、市民革命を経て、人間は平等といった価値観が普及したことの反映であり、身分秩序の解体の証であった。もちろんここでの平等は、ブルジョアを対象にしたものであり、庶民を対象にしたものではない。すべての男性が平等だと考えられるのは、20世紀に入ってからであり、我が国では戦後である。そして女性も男性と平等になるのは、西洋諸国では第2時世界大戦後、我が国では2020年頃だろう。

 定価販売の普及は、それを可能にする産業構造の変化があった。農業といった自然相手の産業から、工業という人為的な産業へと変化した。それによって、自然と人間の繋がりが切れてきた。身分制の崩壊と個人の誕生である。ここで個人なる人間を収容する、住宅も変化し始めた。核家族の発生は、都市化=近代化=工業化と平行な現象だったことに、注目して欲しい。この変化は都市部で発生したが、その国の産業が農業から工業へと変化するに連れて、農村部へも浸透していった。

 近代的な住まいとして、注目しなければならないものが、この時期に登場する。ホテルである。1850年グランド・ホテルがパリにできる。1906年にはホテル・リッツがロンドンにできる。近代的なホテルは、ブルジョアを対象としたものだったが、個人なる概念が生まれたことが、ホテルの建築計画に明示されている。つまりパブリックスペースと幾つかの個室という、現在の住宅設計に連なる理念が提示された。


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