幸いなことに重大な麻痺も残らず、軽い脳梗塞でした。でも、自分では気が付かないおかしなところがあるかもしれません。当時57歳の匠雅音が、ベッドの上で過ごした11日間の記録と、その後日談です。
 脳梗塞という言葉はよく聞きますが、たいていの人は「まさか自分が・・」と思っているのではないでしょうか。ボクももちろんそうでした。だから初期症状が出ても脳梗塞とはまったく気が付きませんでした。
 脳梗塞に襲われたときに「あっ、これはやばそう」と疑えるように、出来るだけ細かく当時を思い出してみました。脳梗塞の治療は、ある意味時間との勝負になります。人により症状は異なるでしょうが、イザというときのために脳梗塞の初期症状がどんなものか知っておいても、決して損はないと思います。

2006年8月9日(水)

−第1日目− 診察・検査、そして深夜へ

   午後3時、医者の前に座ったボクは、いろいろと質問され、かんたんなテストをやられる。指をさしだされ、それを右手の人差し指でさわってみろとか、片足で立ってみろ、とか、片目をふさいでみえるか、などなど、神経系統の疑いをもっているようだ。

 こちらも、ただ、足が痛いとか、手が痛いといった病気ではないだろう、と思っている。片手をあげさせて、頭を押さえて、痛いかと聞く。
「とくべつに痛くはない」
と答えると、この医者は、ただちに別の医者を呼んだ。

 総合診療科の医者だから、彼は内科医だろう。専門の医者に引き渡すつもりらしい。
 これには、たいへん感動した。内心、<おぬし、できるな>と敬意を感じもした。自分の仕事を、他人に渡すことは、なかなかできることではない。優秀な技術者であればあるほど、自分で解決したがるものだ。それは自分のことを、振り返っても、そう思う。だから、この医者の対応には、大きな信頼感がわいた。4時間も待たされたことは、帳消しにしても良いとすら思ったほどだ。
 そのうえ、すでに自覚症状も消え、麻痺も消えている。しばらく様子を見ようか、といった診断があっても、不思議ではない。しかし、ボクの訴えた症状が、典型的な病状だったのだろう。だから、神経内科にふったに違いない。

 上階から走り降りてきたのは、小柄でがっちりした体つきの、若い男性医者だった。彼は、
「神経内科のSです」
と、まず自分の名前を名乗った。これにも好感をもった。
 診察してやるといった医者が多い中で、この病院は、患者といっしょに病気と闘おう、そんな感じがして、おおいに頼もしかった。
 別の部屋に移って、問診が続く。

「一過性脳虚血発作、もしくは、軽い脳梗塞の疑いがあります。
ただちに入院してください。すぐ検査を始めます」

「がーん!!!  今すぐですか?」
「そうです。今から、入院してください」
「えー、だって、今は何でもないのですよ」
「しかし、脳梗塞は1分を争うのです」
「今まで、4時間、待っていたんですよ。4時間もたっていて、分刻を争うもないでしょう」
「待たせたことは申し訳ないが、とにくかく急ぎます」

 S医師の迫力に負けて、入院に応じる。でも、仕事をやりっぱなしで来てしまったので、区切りをつけるために、検査が終わったら、30分ほど外出させて欲しいと言うと、やや渋りながら
「いいでしょう」
との返事。そして、S医師はてんかんの可能性も、わずかながら否定できないと言った。元気な患者が入院することになった。

 MR、レントゲン、心電図をとる。血液検査、と検査がすすむ。検査がおわって、入院の手続きのため、入・退院の受付にいく。病室の手配など、しばらく待てと言う。そのあいだに、連れ合いの勤め先に、公衆電話から電話を入れる。手帳を忘れたので、104の番号案内で聞く。番号をメモる。
「入院したので、帰りに寄って欲しい」
という。本人からの電話だから、入院を告げても、慌てた様子はない。そして、仕事の電話。明日、会う予定をキャンセルする。

 電話をかけ終わった頃から、言葉を発するのに、抵抗がではじめた。何となく、しぜんに言葉がでない。不思議な感じ。

 電話を終えて、入・退院の受付に戻る。係りの女性が、病室に案内してくれるが、話ができない。エレベーターで5階へと向かうが、様子がおかしい。案内された病室につく頃には、舌がもつれ、あきらかに言葉がでない。症状のすすんでいくのが、自分でわかる。

「やばそう」

 ベッドに横になる。S医師は、黙って見つめている。第2回目の脳梗塞の発作に襲われているのだった。頭ははっきりしている。廻りが焦っているのがわかる。点滴がうたれ、ビニールの袋が次々に吊された。