シングルズの住宅

住宅及び居住環境における1人世帯の研究               1994年1月記        目次を参照する

第7章 結び

4.共棲する私

 家族のそれぞれが自立し個化していくと、民家の時代のように家が構成員の福祉施設ではなくなる。
おそらくかつてのような人間関係は崩れていくであろう。
底なしの孤独と毎日向き合っているシングルズの状態が、どんな家庭にも普遍化してくるだろう。
けれども、個化する家族の行き着く先は、個人の自立以外にはないのである。
公にたいするものが、界→界+
n×私→私だとして歴史の流れを考えると、ワンルーム・マンションは時代が求めた住宅だということができる。

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 ワンルーム・マンションは界を潜在化させ、私だけをもった住宅であり、家族の個化を最も端的に表現した形である。
ファミリー住宅が複数の家族の象徴である程度には、ワンルーム・マンションは個人の象徴である。

 個化は、私のなかにもう一つの私を内包することを排除する。
つまり、シングルズには成人男女の同居だけではなく、次世代の育成=子育てが内包されてない。
近代以前にあっては、子育ては無前提的に前提されており、男と女が存在すれば自動的に子どもが生まれ、男と女はそれを育てるものだと思われていた。
そして、子供が天与のものだった時代には、住宅はそのための場所であることに、だれも疑いをもたなかった。
しかし、個化は両性生殖をするヒトから天与の能力を奪い、種を保存する力をもっぱら人間の手にゆだねたのである。
終生のシングルズは子供をもつことはないが、その建築的な表現であるワンルーム・マンションは、当然のこととして子育て=もう一つの私を内包していない。

 私のなかのもう一つの私の欠如は、出生率の減少といった結果の数字としてだけではなく、子を生み育てることの意味が、人びとの精神に内面化されてないことを意味している。
避妊や妊娠・出産のコントロールがうまくできなかった時代には、新しい生命それ自体は善悪の考慮の対象外であった。
子供の護生は、人力の及ばない世界のことだった。
しかし今日、子供は天与のものではない。

 新たな生命の護生は、人間の手の内で制御できることとなった。
神の手からその仕事を奪った以上、新たな生命の誕生にたいして、人間が自分たちで意味付けをせねばならなくなった。
非嫡出児や婚外子のきわめて少ないわが国では、新たな生命を無条件に肯定する価値観を、未だ必ずしも共有していない。
しかし、私がもう一つの私を内包しないことには社会は継続しないから、何らかの形でそれを内包せねばならないのだが、その契機はまだ無い。
それに答えることは建築の役割ではなく、おそらく建築以外の領域で解答が提出されるであろう。

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 男性はもう一つの私を内包する意識が希薄である。
女性はその存在自体で二重の私となり得ることから、種の保存の主たる役割を担わされた。
今やその仕事から逃走しつつある。

 しかし、男も女もどんな形でか、私がもう一つの私を内包することが不可欠である。
シングルズの広範な登場は、社会の構成単位が複数の家族から、個人へと移動している象徴ではある。
シングルズはもう一つの私を内包しないがゆえに、シングルズのままで世代を越えてシングルズであり続けるという継承性はない。
個化が時代の流れであるとしても、種が絶えることはないとすれば、やがてシングルズでありつつも、次世代を育む社会的な動きが台頭してくるであろう。
そして、それと平行して、おそらく住宅のあり方も、いくつかの私が共棲し、しかも私がもう一つの私を内包できる形が模索されるだろう。

 第6章においてホテル居住を考えたが、そこではいわばソフトとしてのホテルであった。
しかし、ここにおいてハードとしての住宅も、無限大にホテルに接近していく。
そうした目で住宅を見るとき、レジデンシャルホテルとか、アパートメントホテルとか呼ばれる長期居住を前提としたホテル建築や、ペンションと呼ばれる安価な料金の宿泊施設が、検討の俎上にのぼってくる。
それは、複数の家族に余分な一部屋を追加した間取りだったり、血縁の親子世帯が住むような2世帯住宅として、用意されるのではないだろう。
見知らぬ他人が界を共有し、私を専有とする住まいとして提出され、界の共有はそれにかかわるすべての私に支えられるものとして成立するだろう。
 人は誰でもシングルズであり、シングルズも通常の社会人であり、通常の世帯であると考えることこそ、私たちの住生活に新たな展望を開く道である。



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