シングルズの住宅

住宅及び居住環境における1人世帯の研究               1994年1月記        目次を参照する

第7章 結び

3.共有する空間

 ワンルーム・マンションに住むことによって経済的に厳しくなっても、シングルズがあえてそこに住む一番の理由は、そこが何にもわずらわされない自由で気ままでいることを許してくれるからであろう。
そうした意味では、シングルズは個室指向=独居指向がきわめて強いように感じる。
しかし、現実のシングルズは必ずしもそう単純ではない。

 本研究のため、シングルズに面接調査をしている過程で、次のような意見を筆者は何度も開いたのである。

私は1人で住むことに必ずしもこだわらない。私のプライバシーが確保でき、自由な生活が保証されるなら、何人かで住むことはいとわない
気のあった友人と一緒に住むことはいいと思う。ただ、いくら気のあった友人でも、一緒に住めば何かと気兼ねすると思う。たとえばルームメイトがいれば、私が風呂に入りたくなったときに、私のかってに入るというわけにはいかないだろう
今は元気で働けるから一人暮らしでもいいけど、ずっと一人と思うと時々ふっと落ち込むことがある

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 自由は手放したくない、それゆえ一人生活はつづけたいが、人間的なふれ合いをも求めているのである。
気軽に見えるシングルズの生活は、自由を謳歌できるばかりではなく、自由の裏には底の見えない孤独がはりついている。
シングルズはそれに耐えて生活していることも、こうした意見は示している。
しかし、今の住宅では、誰かと一緒に住むとやっと手にいれた自由が制限されてしまう。
そのうえ、誰かと住んでも自由が保証されるような広さの住まいは、家賃が高すぎるがゆえに、シングルズは独居を選んでいるのである。
そうしたなかで、自力でシニアーハウスを建築した駒尺氏は、その好運な例外であろう。

 共同住宅は、多いか少ないかは別としてどんな形かで、空間を共有せざるを得ない。
ワンルーム・マンションは1室で生活が完結しており、共有する部分がまったく無いように感じるかも知れない。
しかし、ワンルーム・マンションといえども、廊下や階段を共有しているのである。
そこでシングルズからみた空間の共有の可能性、換言すると界のあり方を考えて、本研究の結びとしたい。
ここでは、共有する領域を図式的に検討するにとどめ、具体的な間取りは別論において展開する。

 外部からの通路のみを共有するのがワンルーム・マンションだったとすれば、かっての民家=農家のような住宅では、そのすべてを家族の全構成員が共有した。
今日では民家の時代と異なり、通常の住宅であっても、個室=寝室は個人が専有するのが普通である。
それゆえ、専有する最小領域が個室だとすると、反対に共有する部分は、1.通路 2.玄関 3.居間 4.台所 5.風呂 6.洗面所 7.便所 8.収納などが対象になる。
同潤会アパートが共同浴場をつくった話は有名であるが、これは風呂を共有した例である。

 共有の可能性はさまぎまな形が考えられるが、それを考える前提として、界の性格付けの基準を検討しよう。
皮膚に触れる部屋は私性が最も強く、それから離れるにしたがって公性が強まるとすれば、寝室は最も私性が強く、通路は最も公性が強い。
銭湯が一般的であった時代には、風呂は公的な部分であったが、今日では裸になることは最も私性に属するのである。
それゆえもはや、同潤会アパートの時代のような共同浴場は考慮の対象にはのぼらない。
以上のような判断に従うと、共有することが可能な上記の1〜8の部屋は、次のようにならべることができる。


 公に近いものほど共有が可能で、私に近くなるにしたがって共有の可能性は低くなっていくのである。

 玄関は今日では履き物をぬぐ場所にすぎず、通路と同様に公性が高い部分である。
それゆえに、適格と玄関を公に含めることは、何の抵抗もない。
しかし、
通路を共有する住戸計画はあっても、玄関まで共有する住戸計画は想像しにくい。
それは玄関が、外部の公と内部の界や私を結ぶ空間であって、玄関を共有すれば、室内のそれに従う部分まで公の領域へとひきずり出してしまうからで
ある。

 室内に入る時に、土足から上層きへとはきかえるわが国の生活習慣は、玄関が公と私を取り結ぶ結界の役割をはたしているのである。
内外ともに土足で生活するのであれば、玄関をなくすことは可能である。
すると、公は界のなかにただちに貫入してくる。

 今日では公が室内に貫入することはありえず、共有の可能性は界と私のあいだに置かれる。
そして、個化する家族を反映して、ファミリー住宅が分解する可能性は、次のAとBの2つの方向がある。


 Aは従来のファミリー住宅が、個化する家族構成員を公と直接かかわらせた時の例である。
Bは個化した人間が再び共任する形を示している。
Aの形は、電話やFAXを各個室にひくといった情報の次元では、すでに一般の住宅でも実現されている。

 図のAであろうともBであろうとも、界と私の関わりかたは、いくつか考えられる。
具体例の検討は別論に譲るが、シングルズ的な見地からは、5.風呂、6.洗面所、7.便所といったサニタリーを共有することはありえない。
そして、3.居間や4.台所を共有することも、次のような条件が付くだろう。
まず、個室
に私専用のくつろげる場所や、私用の台所があることである。
そのうえで、居間を共有することには反対しない。
そう考えると、ここでの居間はファミリー住宅でいわれる居間ではないことに気づくであろう。
ここでいう居間とはロビーもしくはラウンジである。
そして、ロビーに付属した台所というのは、レストランとかバーということになる。

 現実に、AもしくはBのような 住宅が建築されたとすると、界の部分を誰がどう管理するのかという問題が登場する。
今までは、主婦なる女性がそれを引き受けていた。
しかし、彼女たちが人間としての手ごたえある仕事を求めて、界を維持する労働を止めたとき、界は誰にも手をさしのべられない場所になってしまう。
(界の維持のために、ホテルにおいては高い宿泊料を請求される)
子育てが女性特有の仕事となって、男がそれに手を出さないことが話題になるが、界の維持はそこに関わるすべての人間の義務である。
たとえ未修学の子どもであっても、界の維持には彼らなりに可能な範囲での仕事が振りあてられたはずである。

 民家の時代には、家の維持は全員の仕事であった。
しかし今日、女性の自立が本当に射程にはいってくれば、女性が子育てや家事労働に専念しているはずがない。
女性が界の維持から身を引いたとき、界の維持は誰がすることになるのだろうか。
もはやそれを家族の誰かに期待することはできない。
たぶんそれは社会的なシステムとして形成されるだろう。
たとえば掃除にかんしては、今日でもすでにハウスクリーニング業として専門業者が存在しているように、おそらくそれは外部の組織へ、有料で業務を委託することになるであろう。



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