シングルズの住宅

住宅及び居住環境における1人世帯の研究               1994年1月記        目次を参照する

第7章 結び

1.歴史の断絶と継続

  「1938年厚生省が内閣の中に創設され、・・・同潤会は厚生省とその社会局の管轄に移管された。<中略>1941年5月には同潤会の解散を決定した」*1
同潤会の構神の本当の消滅は同潤会解散の日ではなく、寝食分離の法則に従った住宅が12軒建てられた日であったと私は考える」*2
興味を引くことは、戦時下に考案され実施された考え方が、戦後も引き続き実施された点である」*3
寝食分離の概念は、機能主義、生産の合理化、画一化という3つのコンセプトを備えている。戦後になると、ここへさらに次の4つの要素が加わってくる。それはメートル法の使用、大量生産、建築部門への産業資本の介入、建設省の誕生の4つであり、今日の『DK』文化はそれらすべてが合体した中から生み出されたといえる」*4
寝食分離を推し進めることも、ダイニングキッチンと寝室の分離を強いることも、住居内で過ごす人々に機能主義的生活を課しているという点において一致している。そして、この点で、寝食分離の概念と『DK』タイプの住宅とは、同潤会の考え方と真っ向から対立している」*5

 フランス人マルク・ブルディェ氏が控えめに言っているように、我が国の戦後の住宅政策は、戦時下の挙国一致政策から引き続いたものであった。
それは、それ以前の実用主義を旗印とした同潤会の住宅とは正反対のものであったという。
戦後の極度の住宅不足のなかでは、とにかくたくさんの戸数を必要とした。
最小限、住宅でありさえすれば良かった。

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 機能主義と大量生産に支えられて、住宅がたくさん建築された。
ところが、1960年ころには、きそって入居された公団住宅も、

「独身者にも認める 公団の2DK−任宅公団は新設団地の空家対策として、1DKに限ってきた独身者の入居制限を 50平方メートル以下の2DKまで拡大することになり、23日から全国18団地で約3940戸の入居を常時募集する」*6
という事態になり、1970年の中ごろから、住宅公団は大量の夫人居住宅をかかえ始めたのである。

 公団住宅が都心から遠くに立地したために、未入居住宅を発生させたことだけでない。
より大きな問題点は、社会に生活する多様な人びとを無視して、同じ階層や年齢の入居者を対象にしたことである。

 公団に入居するのは、若き夫婦たちが主だった。
そのため団地周辺には、まず産婦人科が開業し、次に小児科が開業したといわれる。
そして、団地で成人した子供は、そこを離れていった。
そして今や団地の医者には、ほとんど患者がいないのだそうである。

 入居当初は、若かった団地住人も、年月の経過とともに高齢化した。
もともと若い均質な入居者を対象として建築されたため、団地全体に高齢者があふれだしたのである。
通常の社会の年齢構成を無視して、人工的に特異な年齢層を集めてくると、不自然な現象が発生せぎるをえない。
建設当時の公団住宅には老人もいなければ、シングルズもいなかったのである。

 それにたいして同潤会住宅は、たかだか2,220戸のアパートを作ったに過ぎなかったが、そこには今からでも見るべき設計思想が多い。都市居住とは何かを原則的に考察し、そこから導き出された原則にきわめて忠実に建築した。

都市の生活者の単位には家族と独身者があり、このそれぞれにふさわしい住宅を供給することは、同潤会の重要な課穎であった。彼らは・・・次の4つの方法を用いている。
1.・・・代官山のように同じ敷地の中に、一方には家族専用の建物を、もう一方には独身者向きの建物を建てる・・・
2.・・・江戸川では家族向き住宅と独身者向きの住宅が1棟の中に混在している…
3.独立した独身者むけの住宅が都市には必要不可欠であり…独身者専用に作られた大塚(女性専用)およぴ『虎ノ門』である。
4.すべて家族向け住宅だけが作られたものである。ただし、住利を除き、それらは戸数18戸から193戸と小規模であった
」*7

同潤会アパートメントハウスの家族向住宅と独身向住宅の割合
場所 世帯向住宅 独身向住宅
代官山 68% 28%
江戸川 48% 50%
三田 73% 26%
山下町 44% 51%
三ノ輪 62% 36%
上野下 62% 32
清砂道 73% 20%
マルク・ブルディェl同潤会アパート原欝J(PI14)より


 こには人間を住宅という箱に、機械的に詰め込む発想はない。
生きている人間を生きているままに引き受け、都市の中で彼らの生活の場を用意するという謙虚な姿勢がある。

高齢者への配慮も忘れられてはいなかった。たとえば、中之郷には階段の途中に休息用のベンチがおかれていた」*8

また、人間が集まって住むためには、何が必要なのかもよく考えていた。
そこには単に<喰う><寝る>ためだけでないものが、仕掛けられていたのである。

 しかし今や、多くの建築家が建てる家や商品住宅と呼ばれるもの、公団住宅が建築する集合住宅、どれをとっても寝食分離の概念と「DK」タイブの設計思想につらぬかれている。
同潤会アパートが、
居住者に特定の住まい方など一切示しておらず、住空間としてのみ価値をもつ住宅を作り出していた」*9 のにたいして、
寝食分離がなされた結果、狭い部屋がますます狭くしか使えない状態になってしまったし、・・・寝食分離は、日本人の生活の所作を低いレベルへと下げてしまったといっても、過言ではない・・・」*10 のではないだろうか。

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 本研究では、公的な政策からは冷遇されているシングルズの立場に味方し、シングルズの都市に住む権利を拡大する方向で論をすすめてきた。
しかし、筆者は社会全体がシングルズ化するとか、シングルズだけが生息を許されるべきだとは、決して言うつもりはない。
むしろ今までの住宅政策や住宅の設計のなかで、シングルズは無視されてきたこと、それが不自然だったと主張したいのである。
がんらい都市とは、多様な人間が住んでいるからこそ都市なのであり、そこでは人間の標準化を許さないものである。
そして、引っ越しが大好きな短期居住者の群れが、都市住民なのではないだろうか。

 マルク・ブルディエ氏が批判する機能主義的な設計手法だけでは今後の都市住民の住宅には対応できないと、筆者は主張したいのである。
そして、シングルズは個化する社会の象徴であり、住宅にたいするシングルズからの希望をかなえることは、複数の家族にとっても、有益であると主張したいのである。

近代のコニュニティ論は、血縁共同体としての家族の領域を認めたうえで、さらにその領域の集合による地域的な共同体を想定しているように思う。だが、そんなコニュニティ論がことごとく失敗の結果に終わったことを私たちは知っている。・・・家族の自律性を保存したままその集合によるひとつの共同体を目指そうとすれば、そこにはきわめて権力的な中心を想定せぎるを得ないはずである」*11

 私たちは「近代」という時代を、歴史的にも空間的にも普遍的なのものであるかのように、錯覚しているのではないだろうか。
そして、家族なるものは常に複数から構成され、時代を越えても変わらないものだとも考えているのではないだろうか。
界の存在を認識せず、公−私が社会と家族を貰いていると考えているのではないだろうか。



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