第6章 個化する社会
5.別居結婚
サルトルとボーヴォワールの関係を持ち出すまでもなく、結婚(事実婚をふくむ)しても別居のままという人はいる。
南博氏と東美子氏もそうした人たちであった。
現在は同居されているそうであるが、
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「私と東恵美子が、結婚と言っていいのかどうか、何しろ、式は上げていないし、法律上の届出もしていない、親類縁者、友人知人に通知をしたわけでもない。それに何より、一緒に生活をはじめたわけでもないので、どう表現したらいいかわからないが、ともかく昭和29年、私たちは人生を共有することになった。私は40才、東が30才だった」*17
「ふたりの意見が一致したのは、『結婚』はするけど、籍は入れないし、同居もしないということだった」*18
結婚=固定的な性関係は結ぶが、界や私は共有しないという生き方である。
こうした結婚形態を非難するのはたやすい。
しかし、一人の人間が他者とどんな関係を結ぼうと、それは当人のまさしくプライバシーに属することがらである。
近代社会は、個人のプライバシーを尊重することを、基本原則としているはずである。
別居結婚というプライベートな事情によって、それぞれがシングルズの生活を選んでも、彼らにはきちんとした住生活が保証されなければならない。
近代社会ではプライベートな事情によって、差別的な取扱を受けることがあってはならないのである。
1914年生まれの南氏は、心理学を専攻する大学の研究者であり、東氏は俳優座に所属する役者であった。
彼らの結婚当時、南氏には盲目のお母さんがいた。
南氏が東氏と結婚によって同居すれば、東氏にもお母さんの世話を期待することになってしまう。
そうなったら、東氏の女優としての精進は、格段におそくなってしまう。
そこで選択されたのが別居結婚であった。
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東氏は南氏個人に関心があるのであって(南氏のお母さんを思う人間的な信条を含めて)、結婚相手のお母さんがたまたま盲目だったに過ぎない。
南氏のお母さんは東氏にとっては、南氏の母親というかぎりでの関係でしかない。
ここには家に入る通常の嫁の心境以上に、厳しい心理的な葛藤があっただろう。
第2睾で述べたように、女性の晩婚化や男女の非姫化によって、シングルズが増殖したからといって、シングルズは禁欲主義者だとは言えない。
法的な婚姻関係を作らなくとも、性的な関係をもっているシングルズはいくらでもいる。
むしろ今日ではシングルズかどうかではなく、婚姻と性関係はまったく別のことである、といった方がよいかも知れない。
平日は別々に暮らし、週末は一緒に暮らす、いわば半シングルズもいるだろう。
それゆえ、どのような人間関係を結ぷかは、まさしくプライバシーに属することがらであって、他人が云々することではない。
スウェーデンにおいて「・・・1958年に初めて性教育が公教育に取り入れられたとき、・・・性と結婚を結びつけることについて激烈な討論が交わされた。教育委員会が性と道徳を結婚というかたちで教えようと提案したのに対し、現場の教師たちから猛烈な反対があった。すでにその頃で1クラスに2、3人、両親が結婚していない子、単親に育てられている子たちがいたのである。性は結塘生活の中でだけ行われるものだと教えたら、その子たちは『間違った生活』の中から生まれたことになる、と教師たちは反対したのだという」*19
そして今や北欧では、結婚しているか否かを尋ねることは、きわめて不躾かつ失礼な質問であるという。
週末だけの通い婚であっても、つまり同居結婚を選ばない人びとにも、住生活は保証されなければならない。
プライベートな事情の如何をとわず、誰にでも平等に対応することこそ近代の理念である。
ここで問われているのは、ワンルーム・マンションによって私の領域が確立した今、これから界なる領域をどう設定するかということである。
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