シングルズの住宅

住宅及び居住環境における1人世帯の研究               1994年1月記        目次を参照する

第6章 個化する社会

3.老人というシングルズ

 戦後の緊急課穎としての住宅増産政策のなかで、寝食分離と「DK」タイブの小さな住宅が大量生産された。
住宅戸数は足りており空き家が目立っているが、今日でも緊急課題だといわれる住宅問題がある。

 それは俗に「独居老人問題」とよばれる。
一人住まいのお年寄りは、不便で苛酷な住生活を強いられている。
高齢者があふれる社会の到来は目前であり、日本人の4人に1人が老人になる。
早急に高齢者向けの住宅を、大量に建築しなければならない、という声をよく開く。
しかし、私たちはここで立ち止まって考えてみる必要がある。

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 建築主が夫婦と子供それにおばあちゃん、という1戸建ての住宅設計を想像して欲しい。
現在の設計手法によれば、厨房や居間、夫婦の寝室、子供部屋などとならんで老人室が用意されるだろう。
老人を大切にしている家庭であればあるほど、老人室はよい場所にしつらえるであろう。

 「
老人室の登場は、単なる肉体的な老化に対する、休養の場としての個室という意味にはとどまりません。老人を思いやる善意によって、生み出されたところがやっかいなのですが、老人室は、老人と老人たちが担った価値観の隔離を意味しています。<中略>かっての家は、カッチリと壁で間仕切られてはいなかったため、誰にとっても家中が自分の場所であり、かつ誰の場所でもない、という不限定な雰囲気をつくっていました。それに対して現代の間取りは、個室の集合となったため、ここは誰の部屋とはっきりと特定します。誰の部屋と特定することは、それ以外の者には、自分の部屋ではないことになります。それゆえに、主導権を失った者にとっては、家中からしめだされる結果になります。」*9

 民家の時代には、私=個室がないがゆえに、家中が全員のものであり得たのである。
ファミリー住宅になって、家の全体から界がはじき出されると、私は部分=個室へと収欽した。
部分の支配権は、全体性を回復することはなかった。
親である夫婦は家の経済を支える中核として、子供にたいして支配権をもっている。
そのため、親は子供部屋には入れるが、老人にはもはやそんな権限はない。
子供は親に養われているがゆえに鶉の入室は拒否できないが、親ではない老人の入室は拒否できるのである。

 寝食分離と「DK」タイブの設計思想によって作られた個室が集まった形式の住宅=ファミリー住宅では、もはや老人の居場所としての老人室が不可欠であろう。
なぜなら「DK」タイブの住宅では、老人室を作らないと、ほんとうに老人のいる場所がない。
しかし、こうしてつくられる老人室は、老人を人生の現役とは見なしていないことの表現にほかならない。
老人室は、いわば消極の象徴である。

 それにたいして、同じように個室である子供部屋には、マイナスのイメージはなく、むしろ積極の象徴ですらある。
同じ個室でありながらそのイメージの違いは、かっての全体の所有者が全体の所有権を失って、部分としての老人室を与えられるのにたいして、何も持っていなかった子供が、積極的に求めてやっと子供部屋という部分を得たものだからである。

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 住宅のなかに老人室を作ること、それは換言すれば、はいわば姥捨て山を作ることなのである。
役割の終わった、つまりもはや何の価値もない人間をおく場所が、ファミリー住宅における老人室である。
滅びゆく人間=老人としての位置づけが前提となって、老人室が成立している。
界への影響力を排除する働きをすら持つのが老人室である。
しかし、

「家族以外を通じて社会と接触している老人には、個室としての老人室では不十分・・・」*10 であることは、いうまでもないであろう。

いくら高齢になろうとも、現役の社会人であれば何才になっても、老人室は不要であって、彼らには単に住宅が必要であるに過ぎない。
高齢の政治家たちを見ていると、それは簡単に了解されるであろう。

 ひるがえって、社会における「独居老人」住宅を考えるとき、それをどんなに美しく作り、そこに住むことを強制ではなく、入居することをお願いしたとしても、やはり姥捨て山なのではないだろうか。
人間は何才になっても、自分の存在価値を確信しなければ、生きて行けない。
誰が姥捨て山に住むであろうか。
つまりここで明らかになることは、独居老人対策としての住宅建築自体が、差別そのものだということである。
しかもやっかいなことに、それが善意でなされる差別であるのだ。

 老人住宅を作る人たちは義務感にあふれ、正義の実行者である。
善意による姥捨て山の提供であるので、老人シングルズには、やりきれない想いが払拭できない。

お一人になられたら、3DKなどの広いところから、1DKなどの部屋に移ってもらうようにしているんですが、お年寄りはなかなか移りたがりませんね

こうした発言を、住宅関連の部署にいる何人かの役人から聞いた。
私たちは無意識のうちに、1人生活であれば1DK、2人生活であれば2DK、もっと多くなれば3DKや3LDKと考えてはいないだろうか。
シングルズは独り者だから、狭い部屋でよいと考えているのではないだろうか。

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 しかし、本当は、住戸の広さと居住する人数とは、ほとんど関係がない。
たとえば、同じシングルズであっても、若年層と老年層では、事情はまったく違うのである。
若年勤労者は20数年しか生きておらず、それを反映して身の回りの所持品が少ない。
それにたいして、60年70年と人生を歩んで、すでに子供たちを育て上げ、伴侶を見送ったシングルズは、60年70年分の記憶に相当するものを持っている。
他人には無用のように見えようとも、当人にとっては大切な思い出の品であるかもしれない。
そうした無用のものがつまった部屋が、有効に使われていなくとも、それはそれで意義のある部屋なのである。
永年生きてきた人間の精神が、若者のそれのように陰影のないツルンとしたものと同じだ、とは考えられないではないか。
永い年月に鍛えられるということは、必然的に身の回りのものも増えているのである。

 構成員の一人が欠けたからといって、永年住んでいた家からより狭い家に移るためには、身の回りのものを狭い家に入るだけの量に減らさなければならない。
減らすとは捨てることである。
つまり、自分のもの=記憶を捨てなければならないのである。
狭い住宅に移住することは、換言すれば、自分の生きてきた人生を捨てろと、他人から強制されることなのである。

文化をもたない子供は、新しい社会に適応して、文化を体得していくのだし、老人が古い文化を捨てることは、自分自身を否定することにつながりかねない・・・」*11

自分の意志ではなく、人の都合によって移住させられ、人のやっかい者になって生きてゆかなければならないとしたら、どんなに悲しいか。<中略>自分の意志によって積極的に移動した場合には、80を過ぎても充分に適応している人を、私はいくたりも知っている」*12

 前記の役人たちは、親切心で移住をすすめているのであろう。
安定した身分、恵まれた収入、保証された老後をもつ役人には、自分が老人シングルズになることが想像できないのであろう。
それゆえに、老人シングルズはかわいそうだという同情=困った正義感を振りまわしてしまうのであろう。

 一人の人間が住むのに必要な面積は、○○平方メートルが適切であるという割り切りは、住処が人間にとって何かを面積に換算する恐ろしい発想に見える。
老人になって収入が減って、生活が苦しくて家賃が払えないだろうから、狭い部屋に移ったほうがいいのではないか、という親切心での発言だとすれば、役人たちはプライベートな領域にまで立ち入るファシストとしか言いようがない。
人がどんな部屋に住むかは、プライバシーに属することがらであって、経済的な条件が許す限りで、当人の自由に住むところを決めてよいのではないか。
高齢化や低収入と、住む場所は元来別の問題である。
低収入の人びとにたいする政策と、シングルズの住宅は異なった次元で考えるべきである。


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