シングルズの住宅

住宅及び居住環境における1人世帯の研究               1994年1月記        目次を参照する

第6章 個化する社会

2.界なる領域

 ワンルーム・マンションを除く今までの住宅は、複数の人間が住むものだという前提によって、建築されてきた。
しかも、同居する複数の人間は同質のものだという前提だったため、家族のなかにおいては男や女という属性を無視して、対社会的には一様な価値観が支配した。
それゆえ住宅は外部と内部に分けられて、外部を公、内部を私という対立的な概念で考えられてきた。
(今から考えると、これはきわめて男性優位の思想である)
しかし、シングルズの登場はワンルームマンションなるものを大量に発生させ、住宅においては公私の概念がほころび始めていることを示した。

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 1人で生活するのであれば、ワンルーム・マンションで充分に生活可能である。
今までの住宅には、最小限の住宅であるワンルーム・マンションがもつ部屋以外の部屋が不可避的に存在した。
ワンルーム・マンションが明らかにしたのは、内外のあいだにもう一つの領域が存在しているという認識であった。
本研究ではこれを<界なる領域>と呼ぶが、この界なる概念は、公でもなくもちろん私でもなく、何人かの人間が同居するときに不可避的に発生する軋轢を緩衝する役割を果たす領域である。
それゆえ界なる領域は、複数のしかも血縁の家族にのみ発生するわけではない。
しかし、シングルズが登場するまでは、家族は必ず複数だったために、その住宅には必ず界なる領域が存在した。

 近代より前は、どの部屋も個人に専有されたものではなく、全員に共有されていた。
個人の個有の領域としての個室なるものは、存在しなかったのである。
これはどんなに強調しても、強調し過ぎということはない。
近代より以前にあったのは単に部屋であって、それは用途に従属しているだけであった。
逆説的にいうと、個人が存在しなかったので、個人が専有しない居間とかダイニングキッチンも同様に存在しなかった。

 民家の時代においては、外部の価値観が住宅内を占領しており、私なる概念は存在しなかったので、外部=内部ととらえて良い。
それゆえに近代以前の住宅=民家にあっては、外と内は公私の関係というよりも、私を秘蔵した界と公の関係になるのである。*8
近代への途上で、住宅は用途による領域分けから人間による専有の領域へと、支配価値の再編成が行われたのである。

 決して寝室となることのない居間なる部屋が登場したときに、公私の2元論は破綻していた。
しかし、居間が登場した段階では、ワンルーム・マンションのように私が明確に特化しなかったので、居間+いくつかのか個室と認識されたにとどまったのである。
(茶の間は居間とよく似ているが、夜になるとそこに布団を敷いて寝ることから、個室とは対をなさない。茶の間は、むしろ民家型の住宅に属する)
そこで、民家、ファミリー住宅(公拭住宅を初めとして今日の多くの住宅をいう)と、ワンルーム・マンションを図示してみると下図のようになる。


 戦後の近代的な住宅において、私が個室にひきこもったとき、居間は誰のものでもない領域として空洞化した。
ここで住宅は、外部=公、居間=界、内部=私という3層構造になっていたのである。
ところがこの時代には、家族は複数であるという前提から逃れられなかったため、ファミリー住宅においても点線でくくられたもの全体を、私として考えていたのである。

 シングルズの登場によって、やっと公と私が直接に対するようになった。
今までの住宅が、用途によって概念化されていたのに対して、シングルズは住宅には人間に属する専用の領域があることを明示した。
それは、ワンルーム・マンションとして現実の建築となって現出したのである。

 民家の時代には私が存在しなかったので、界が存在しなかったわけではない。
ただ民家の時代には、私の存在は一様で、公が私の存在証明であったので、界は見えなかったのである。
空間的には、界はファミリー住宅において初めて顕在化したのであるが、ワンルーム・マンションにおいて再び見えなくなった。
しかし、界なる概念を入手したことによって、個人と家族そして社会の関係が明確にできるのである。

 山本理顕氏は、社会−家族−個人を、社会−個人−家族ととらえ直すべきだという提言をしているが、シングルズにあっては社会−(界)−個人であり、そして複数の家族では、今日でも社会−界−個人という構造になっているのである。
今後も、家族=界の構造は残り、界が家族を飲み込むことはあっても、個人としての人間が家族を飛び越えて、社会−個人−家族となることは有り得ない。
なぜなら、社会−個人−家族という序列になったら、個人がもう一つの私を内包できないから。
簡単にいうと、社会−個人−家族という序列になったら、人間が種として繁殖できなくなってしまうのだ。
このあたりの事情は後述するが、人間は社会的な存在であることから逃れることはできない。
だから、シングルズにあっても社会と個人だけが存在するのではなく、社会−(界)−個人という構造はなりたっているのである。


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