言葉とその定義  
当サイトで使う言葉や考え方の基本をまとめた。
単家族とは何か <男女差別>の定義 男女差別撲滅の根拠
ゲイと同性愛 建築の用語 性別による役割分担
ポルノグラフィ 暴力 子供(幼体)と大人(成体)
ユースィズム 近代
ユースィズム(成体化した子供主義)
 
 女性が自立の思想的拠点としたのはフェミニズムであり、男性が神から自立したときに、手にしていた思想はヒューマニズムである。男女ともに自立を果たした今、残された子供も自立が迫られている。

 成体化した子供は、大人と同質の人格がある。そう叫ぶときに、彼等が手にしている思想を「ユースィズム=Youthism」と名付ける。ユースィズムはまだその内実が確実ではない。ヒューマニズムがその形を確定するに長い時間がかかった。フェミニズムに至ってはいまだ成熟途中である。

 ユースィズムは先行者たちを見知っているから、素早く自立の思想的拠点を構築できるだろう。情報社会に生きる子供の存在証明が、ユースィズムである。

子供(幼体)と大人(成体)

 繁殖力を持った人間を社会的存在として見たときに「大人」と呼び、繁殖力を備えた人間を「成体」と呼ぼう。そして、繁殖力がない人間は「幼体」と呼ぶ。生き物としての人間としては、大人と子供の間に違いはない。

 男女の社会的な違いを、性差と呼び、男性(=man)と女性(=woman)と称する。生物的な違いを性別というが、これにはオス(=male)とメス(=female)という言葉が当てられる。性差と性別の次元の違いを認識したのが、フェミニズムだとは何度も言ってきた。

 性差に対応する区別を、大人と子供と称し、性別に対応する区別を「成体」と「幼体」と称することにする。前者は年差で、後者は年別といったところだろうか。年差は「大人」と「子供」という区別をし、年別では「成体」と「幼体」という区別をすることにする。

 成体は精通もしくは生理がある年齢以上だから、おおむね小学高学年から中学生位以上の年齢である。それにたいして、「幼体」は精通や生理がまだない年齢以下である。

暴力
 
 肉体的な力の発揮。生産的に使われると労働力となり、破壊的に使われると戦いになる。暴力に類似して使われる言葉に、破壊力がある。今日の戦争で使われるのは破壊力であり、暴力ではない。

性別による役割分担

 誰でも自分の身体を維持することが優先し、身体の維持ができて初めて種への奉仕に至る。男女両者ともに、種族保存より個体維持が優先したがゆえに、個体維持に適した腕力に秀でた男性が、非力な女性に優位した。そのため、男性は大きな個体維持と小さな種族保存、女性は小さな個体維持と大きな種族保存という、性別による役割分担が必然だった。

 農耕社会や初期工業社会まで、労働において腕力が不可欠だった。そのため、労働力に富み腕力に秀でた男性が、第一の性として社会的な優位に置かれた。個人的には男勝りの女性がいても、所有権や相続権がないとか選挙権がないといった形で、女性は劣位に置かれた。

 情報社会を間近に見るに及び、肉体労働から頭脳労働へと産業における労働価値が変化してきた。そのため、屈強な腕力が不要になり、男女間の性別による違いが無化されてきた。工業社会までは必然だった性別による役割分業が、社会的な桎梏になった。いまや性別による役割分担は、社会に敵対する価値観である。  

ゲイと同性愛

 農業が主な産業である社会では、高齢者と若者が肉体的にも親密な時間を過ごすなかで、精神的な文化が伝達された。だから同性愛=ホモとは、年長男性が年少の少年を愛でる、つまり優位者が劣位者を可愛がる愛情だった。年長者が年少者に挿入する性関係は、自然の秩序に従った行為だったから、世代を越えて文化を伝える一種の教育ですらあった。そのため、ギリシャやわが国の江戸時代に限らず、同性愛は世界中の至る所に存在した。

 しかし、ゲイは年齢によって人間を上下の秩序下に見ることには無縁で、ほぼ同じ年齢同じ地位の同性間の愛情関係である。ゲイは横に並んだ対等な相互関係である。上下関係を持たないゲイは、肉体関係によって確認される年齢秩序の安定化から逸脱するものだった。だからゲイの存在は、年齢秩序の上位者や年齢秩序そのものに対する反逆を意味した。ゲイとホモは似て非なるものであり、ゲイは都市にしか生存できない。

 単家族(たんかぞく)詳細は、「単家族の誕生」を参照してください。                               
1.農耕社会=大家族=群の生活
2.工業社会=核家族=対の生活
3.情報社会=単家族=個の生活

<男女差別>の定義

 男女差別とは、男性と女性が相互補完関係にあり、両性の立場に互換性がないことである。生理的な男女の違いが社会的な違いにまで演繹されて、性という本人の努力や心構えではどうにもならない理由によって、社会的な役割が分担され、そして、女性が男性の立場や仕事をしたいといったときに、女性には不可能である状態が差別である。それゆえ、社会的に男女が相互補完的であることは、それ自体ですでに差別である。

 男女差別撲滅の根拠

 大人である親が死んだら、小さな子供は生き残れない。だから、男女ともに子供を養うより、自分の口を糊するほうが優先した。口を糊するとは、衣食住を満たすことであり、財を生産することである。工業社会まで肉体労働が、生産力の根底を支えてきた。必然的に腕力に秀でた男性が第一の性、非力な女性は第二の性だった。同じ理由で、腕力に劣る身体障害者も二流の地位しか与えられなかった。

 情報社会化する今、肉体労働から頭脳労働へと、生産力はその基礎を移しつつある。頭脳労働では腕力は関係なく、頭脳の明晰さだけがものを言う。男性は腕力にこそ優れるが、男女間に知力の優劣はない。女性や身体障害者を頭脳労働者として、社会に迎え入れないと情報社会を維持できないから、男女間に序列があってはいけない。

 社会と個人は直結していないので、社会的な差別が解消されたからといって、必ずしも個人の幸福感は保証されない。差別の解消は保護の解消でもあり、差別のない社会は保護もなくなるから、男女差別の解消は必ずしも女性に楽園をもたらすとは限らない。しかし、人間たちがより楽しく豊かに生きる社会をつくるために、男女差別や身障者差別の撲滅は不可避である。

 情報社会では男性と女性は、社会的にまったく等価な人間であるから、女性は被害者ではないし社会的な弱者でもない。等価な人間のつくる対等の関係こそ、互いに充実感があり楽しいものだと思う。女性の自立を願うのは、女性のためだけではなく、男性を含めた人間のためである。

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