河畔望論   

書評    「饗宴」 論者 Vaio und Occulta
   プラトン 岩波文庫、1952年

 饗宴はその内容から大きく5つの場面に分けることが出来る。すなわち、本題の前におかれる部分、本題の中での、アガトンが話し終えるところまでの部分、ソクラテスの演説の部分、その元愛人?のアルキビヤデスの話、それから(他と比べるとあまりに短いが)アルキビヤデスの話が終わってからこの作品が終了するまで。

 第一の部分は、いわば舞台装置のようなものである。つまり、物語を直接始めず聞いた話を聞かせるという形式をとることによりどこか別のところ、遠いところの話であることになり、自然と距離感が生まれる。(このように間接的にするのは近代以降の理論家はあまり取らない叙述方式であると思われる) このことの有する意義は中々大きい。我々が距離を置くまでもなく作品が距離をとってくれるのである。我々の中で作品が直接に作動することもなく、直接影響することも無い。批判するのも容易になる・・・ (ただし、これはプラトンの独創というよりは古代ギリシアに特徴的なものであり、プラトン以前の哲学などの思考形式ではないようである。また、それらも以上に掲げた意義を得るためだけにこうしたのではなく、むしろ彼らの思考形式からなかば必然的に出てくるものらしい・・・) 後のほうに入っても所々で「・・・はこういったらしい」との訳文が出てくる。ギリシア語など読めないので何ともいえないが、ひょっとしたら本体の部分もいわゆる間接話法で書いてあるのかもしれない。

 第二部では人々がエロスについて議論を戦わせ、エロス賞賛という議題を自分こそがうまく行っているとして競い合う。(議論を戦わせる本題の前で人々がこうした議論をするかどうかをきめるにあたりエリュキシマコスややソクラテスが意見を述べ、人々がみな同意したとある。ここで我々が「古代ギリシア」といわれて考えるような直接民主制(特に選挙)めいたことがまったく出ていないことが興味深い。)

 まずファイドロスが話す。愛することとそうでないほかのこととを比べ、エロスの支配下にある愛することがどれほどの恩恵をもたらすかを述べる。すると次の語り手は、そうではない、エロスにも高貴なエロスと俗なエロスがある。そして愛することとそうでないことの対立軸ではなく、行為態様が美しいか美しくないかの対立軸こそが重要であり云々という。するとさらに次の論者は大体良かったけどまだ不十分で不満である、私に言わせればこうだ、と続ける。彼らの議論はやむことは無く、次の論者は彼らとは違うアプローチを取り、私はエロスの威力について述べよう、として論を展開する(日本語になってしまっているためよくわからないが、喜劇作家であるアリストファネスは「茶化す」ことを辞めるように要求され、やめてしまっているように見える。ひょっとしたらギリシア語の文体はユーモアに溢れるものなのかもしれない。が、笑いによる批判が回避されているように思われる。また、プラトンの話として「人間は昔男女がくっついていたのであり・・・」ということを言うものがいるが、これは明らかに後半部分で否定されていることから、プラトン自身の見解ではないということがわかる) そしてさらに論が続く。すなわち次の論者アガトンは今まででてきた全てのエロスの賞賛方法を批判し、神の与える恩恵だけを論じるのではなく、神そのものをほめ、次にその賜物をほめるべきだとする・・・

 以上のような議論の展開の方法、議論の対立のさせ方は(プラトンの頃以前の)ギリシアにおいて伝統的なものであったのではないか、と思われる。もっとも私の勘違いかもしれない。

 第三部ではソクラテスの演説が始まる。
 ここで、ソクラテスはそれまでの議論全てに対して距離をとり、自分は「こうだ」と主張する。すなわち、自分はエロスをほめたりなどはしない、と言い出す。今までの議論の対立そのものと対立するといってもよいかもしれない。
 
 まず手始めに、ソクラテスはかの有名な方法をとる。すなわち、相手の論をとりそれを展開させて矛盾に帰着させる方法。これによりいままでの「エロスは美しい」というテーゼ?を否定した後(この否定の部分が読んでいて非常に息苦しい。なぜだろうか)、彼は昔習った話を聞かせる。ある女性から聞いた話を聞かせる、という体裁をとる。ここでいわば劇中劇のようにさらに距離が置かれることになる。
 
 この話では、中間という概念が現われ、二項対立による対立や緊張を台無しにする。すなわち、エロスは美しいのか、それとも醜いのか、といえばそのどちらでもない。中間に位置するのである、という。神なのか人なのか、と問われれば、やはりその中間に位置する。神霊(ダイモーン)なのである、と言い出す。中間に位置する、などといわれても良くわからない・・・

 論は続いていく。もともとは別々の対立軸にあったもの(例えば、美しいかどうか、と良いものかどうか、など)が一つの軸にまとめられることで論が展開される。(この辺が息苦しさの原因かもしれない) それぞれの軸の持っていた別、違いが解消されていく様でもある。そうしてエロスとは「不滅のものへ向かうものである」というテーゼが出てくる。

 話はこの不滅のものをいかに得るか、という方向へ進む。至高のもの(エロスの向かうところの者)へ如何に到達すべきかが語られる。どうするのかというと、段階的に上っていくべきである。すなわち始めは一人の男性から、続いて複数の、そして肉体から学問的なものへと・・・ そして至高の、不滅のものへ。

 これらは実際にああしろ、こうしろ、という、実際にやってみることができそうな話である。新興宗教の修行メニューだなどといわれても(そのカルトっぽさも手伝って)「ありそうだ」などと思える。あまりたとえが良くないがそのくらいに今までの議論とは質が違う。今までのものはその通りにやってみることなど目的とはしていない。「その通りにはしない」話し方は古代ギリシアでは一般的であったようである。どうもプラトンは伝統から外れだしているらしい・・・

 はたしてどうなのか?ソクラテスは実践した(ものとしてプラトンは提示する)のか?それは次で明らかになる。すなわち、アルキビヤデスの部分である。

 アルキビヤデスは、エロスについて語りはしない。ソクラテスの話の後に登場した彼は、皆がやったようにエロスについて賞賛する代わりに愛する?彼のソクラテスについて賞賛することとなる。そしてソクラテスが何を語ったのかを知らない彼はソクラテスが青春美(肉体の美)については無頓着であることを述べてしまう。まるで刑訴(ああ、思い出してしまった!)における「自白の暴露」である。こうしてソクラテスが語ったことをソクラテスが実践しソクラテスがその境地に達したことを、そしてソクラテスの語った境地にたどり着くことが可能であることを「証言」してしまう。彼の証言はこれにとどまらない。こうした境地に達したソクラテスが超人的な、超人とは言わずとも大いに優れた能力を発揮することを述べる。(このあたりのくだりが特にこの愛の段階的上昇の話をカルトっぽくする。「愛の段階を上昇させれば超人になれますよ」)

 何故このような話を置いたのか、というと、どうも作中に出てくるアレテー(徳)に関係するようである。すなわち、アレテーは教えうるか?という問題に対しての解答であるとも思えるのである。アレテーとは訳語の「徳」の語感とは異なり、おそらく「政治的資質」のことであると思われる。もっともプラトンのこのテキストでは徳の語の意味する「個人的資質」のほうの意味も入ってきている感じはする。

 なにはともあれ、ソクラテスが話していたときは、その話はソクラテスの独創という形ではなく「異国の女性」から「聞いた話」であった。ここでも(冒頭の舞台装置と同じく)二重に距離がとられている。ところがアルキビヤデスのところでは「聞いた話」ではあるが「異国」ではなく、「隣にいる人」になっている。距離が一つ縮まってしまった。

 そして最後の部分にいたる。なんとそこではソクラテスがアルキビヤデスの述べたような(もっとも戦闘や氷上での場面はない)超人的な能力を体得していることが描かれる。少なくとも、その場にいた人の中でもっとも優れていることが描かれる。徹夜をしても何の問題も無くすごせる、ということではあるが。叙述スタイルが「聞いた話」が「現実の叙述」になってしまった。置いた距離をわざわざ詰めてしまったのである。話を「現実の中で直接作動する」ものとして提示したことになる。


 どうも、この愛の段階的上昇がプラトンの主張ということになるようである。しかも、その通りに実践してみることを要求しているようである。解釈を経ることなく主張が出ているため、これに対しては「いや、その通りには私はしません」としかコメントしようが無い。また、複数の議論を対立させ緊張を生み・・・ という伝統的思考とも決別しようとしているのがわかる。が、これに対してはなんとも・・・

 ただ、直接的に論ずるようになる一方(現実との距離が近くなってしまい、再現性が強くなる)様々な対立軸を(これは私の偏見によるが)好ましいものか好ましくないか?の軸で解消してしまう思考方法は危険であるように思える。

 以上です。あまり切れがないですね。では、これから匠さんの批評を読ませていただくことにしましょう。楽しみです。

 それでは。Vaio und Occulta
(2004.03.24)

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