河畔望論

映画評 「しあわせな孤独」 論者 Vaio und Occulta

 ところで、しあわせな孤独、みてきましたよ。確かに素晴らしい映画です。今まで映画館で見た映画の中でベストスリーに入りうるくらいに私には心象が良いです。

 ある結合体が別の結合体によりばらばらになってしまう。そのばらばらになったほうの構成部分が今度はもう一つの結合体を結果的に切り取ってしまう。そして医師とコックの結合体が出来る。ところがこんどはこれが順に、それぞれ以前に自分が属していた結合体に引っ張られ、解消してしまう。引っ張った結合体自体も「もとのさやにおさまる」ことはできない。何かが決定的に変わってしまっている。

 結局主人公はあいまいな、または偽りの関係に耐え切れないくらいに一義性を追求する。その結果、コックと子供が彼の中でどうしても対立してしまう。ところがその彼を家に結びつける子供たちはというと、娘はぞっとするような態度を底に持ち続けるし、息子たちが反発しないのは「幼すぎて何も理解できない」からにすぎない。

 明らかに姉と弟たちが対置されている。

 この作品の中では二項対立が持ち出され、あいまいな関係から極限にまでその対立が増幅される。事故にあった青年とコックとの対立。昔の恋人を取るか惹かれる医師をとるか? 妻をとるかコックをとるか? 今までの家庭での生活をとるかコックとの生活をとるか? などなど。これらは互いに対立し間の緊張関係をどんどん増幅していく人間関係の中であらわになり、それぞれの対になっている項が対等になっていく。緊張した関係の中でそれぞれが互いに対等になっていく。父と娘。父親の浮気相手と浮気相手の娘。夫と妻。事故被害者と担当看護婦。現実世界と「あってほしい世界」 (例えば主人公が怒鳴ったりして娘をなんとか押さえ込もうとして、その場では何とか対になっているものの抹殺に成功したとしても)片方の対が決定的に抹殺されることは無い。最後の場面、息子の誕生日に父親がやってくるところにて、捨てられた娘が、捨てられた妻がリベンジする。

 そしてそれぞれの項をなすものが一義性を要求する。あいまいな関係を非常に嫌う。

 こうした緊張関係と対立のため、従来の結合(=家族)がずたずたにされていく。分解してしまってもとに戻りようが無い。

 この流れの中で唯一新たな結合を作りえたのは事故にあった学者とその担当看護婦である。それぞれが息子が溺死して悲惨だ、いや何を言う、恋人を失ってあなたのほうこそ悲惨だ、と相手の一番探られたくないところを激しくえぐりあう。

 ところが、最後に学者が恋人を失った後で、両者は和解する。これはどうやら「全てを失ったもの同士で互いに敵対関係にあったもの同士の和解、あらたな関係の構築」であり、ホメーロスのイリアス最終章、無二の親友(パトロクロス)を殺されたためその殺した相手(ヘクトル)を殺したアキレウスのところへ、息子たるヘクトルの遺体を引き取るべく単身で敵陣へと乗り込んでいく父親、プリアモスとの場面をほうふつさせる。すなわち、アキレウスはヘクトルを自分の陣屋へと招きいれ、(無論殺したりはしない)杯をすすめる。そうして親友を失ったアキレウスと息子を殺されたヘクトルとの間で「全てを失ったもの同士が有する連帯」が生まれ、2人の間に今まではかつてありえなかったような関係が発生する、その場面と非常に似ている。

 この映画でも、今まで何の関係も無く、出会ってからは敵対関係にしかなかった2人が見事和解してみせる。それは家族といったいままでの結合形式とは別の原理によるものと思われる。

 だからこそ、今までの原理による医師はもとあった結合の中へと帰ることは出来ない。無論それは崩壊済みであり(息子たちにおいてかろうじてかけらが残っているに過ぎない)、激しい緊張関係を経て「対等」になってしまった妻と娘に対しては今までとは違うアプローチを取らねば、「和解」して新たな関係を築くほか無いのだが、医師にはそれが見えない。(あまりに何も見えていない息子たちはここでは妻と娘の対としておかれているに過ぎない)ゆえに苦しみの中から抜け出すことが出来ない。本作品の中で真に肯定されているのは上述の「和解、そして新たな結合へ」であるが、これにたどり着くには相当の、かけがえの無いものの喪失が必要とされる・・・
 
 私はこのような見方をしました。よって私自身はなんらの直接的な主張をも見出しえませんでしたが、そんなことにかかわらずこの作品はただ美しい。澄んでいる。

 これはどうもホメーロスのイリアスと似通った波長を持つと思われる。そうです、デモクラシーが成立する以前のそのもととなったところの「政治」(現実に行われているものではなく思考形式としての政治)の成立を背後でしっかり支えうる可能性のある作品です。
 
 よってこのような視点から匠さんの評を批判すると、どうもフェミニズムとか個人の役割の解放というのはあまり関係が無いのではないか、2人の恋は肯定されているのではなく、ずたずたになっていくその過程としての意味を持たされているに過ぎないのではないか、とも思います。

 長い文にお付き合い有り難うございました。それでは。Vaio und Occulta
(2004.02.13)

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