河畔望論

書 評 「ケイタイを持ったサル」 論者 nostalgia
   正高信男著 中央公論新社、2003年

 「人間らしさ」の崩壊と副題がついた本書「ケータイを持ったサル」は、霊長類研究の延長として人間の行動を分析し、人間が社会化していく過程を論じていく。集団生活での行動や個体能力の調査などを通していくつもの鋭い指摘があげられている。指摘内容はもっともと感じる部分が多く、現代社会の仕組みを鋭く切り出している。本書の論点は、生まれた赤子がいかに今後の社会に適応し「人間らしく」生きていくのかである。

 生まれた子供は「家族」に育てられる。現代家族として核家族が当てはまる。数十年前はより大きな集団の大家族で子供は育てられた。大家族で機能していた子育ての仕組みはその時代背景に適した子供を作り出し、「人間らしさ」を築いてきた。

 「人間らしさ」という非常に抽象的な言葉が指し示す内容が重要であるが、著者は「葛藤を乗り越える強さを持つ人間」を人間らしさとしている。人間は少なからず社会で生きていく生き物であるため、葛藤とは無縁でいられない。これには真実である。

 「人間らしさ」の崩壊の象徴として、引きこもり系(私的な領域をつくり社会と断絶する行動をとる)とルーズソックス系(「コギャル」に代表される集団の中で公私の区別がつかない行動をとる)をまず取り上げる。

 引きこもり系は、軋轢による挫折を受けたとすると、その原因を自己責任として引き受け、自分を許せない結果、内面に閉じていく現象だと述べる。その反対にルーズソックス系は、思い通りにならない状況があったとして、その原因を自分の非ではなく徹底的に外部の非として居直り、非がある外部環境(=公)は無視しえる対象と捉える現象だと述べる。

 引きこもり系もルーズソックス系も原因は同じで、葛藤を乗り越える強さを人間として育めなかった結果としている。それはどこに原因があるのかと掘り下げて、核家族が持つ問題に行き着く。その問題とは、核家族という結婚感が持つ「専業主婦」というイメージに還元される。子育てが女性を縛った結果、社会(=公)から完全に隔離された。隔離された母子関係という限定的な関係の中では葛藤を克服する強さを育むことはできない。

 子供の社会化は専業主婦が甘えを与える情況では成り立たず、専業主婦という歴史から見れば特殊解といえるシステムに現状社会の「人間らしさ」の崩壊をみる。霊長類研究者という切り口から、現代社会を分析する本書での解決策として、掲げられているのが「出産は30歳からを奨励しよう」であった。これには私は説得力を感じる。この言葉を信じれば女性もあせらず生きられるのだろう。

 題名では指し示されないが本書は家族論である。何十万冊と売れているが、本書を家族論と感じ少子化と言われる現代社会と格闘していると認識している人は少ないのだろう。
(2004.08.21)

ブックレビュー」に戻る