河畔望論

映画評 「ウィスキー」 論者 nostalgia

 3人の老人が出てくる高齢者が織り成す恋愛ストーリー。人は誰かに愛されたいし、誰かに必要とされたい。これは年齢に左右されない普遍の概念なのだろう。高齢者は長寛な時間の中で生きている。そこでの恋愛は、要不要とは別次元で存在する必要不可欠のモノなのだろう。

 映画「ウィスキー」は今年一番の映画だと思うが、あまりにも現実を現実として描く映画は、観る人にリアリティを感じさせないのだろう。ここには必ず訪れる社会が描写されている。

 靴下工場で働く女性マルタとその工場の社長ハコボは高齢者である。与えられた日常を肯定し、日が昇ると訪れる毎日の生活を疑うことなく繰り返し生きている。彼らは社会的に雇用関係を結んでいるだけで、個人的な関係は何もない。しかし、海外で暮らすハコボの弟エルマンが兄ハコボの家に泊まりに来るというところから小さな変化がはじまる。

 内気なハコボは、車椅子生活の母の介護で忙しいことも相まって、未婚であったが、母の死の後に、結婚して幸せな生活を送っていると見栄を張り弟に嘘を伝えてしまった。エルマンは母の介護から逃げていて、その謝罪の意味で兄に合いに来ると後でわかる。

 ハコボはエルマンが泊まりに来る2〜3日間は嘘を突き通すことを心に決め、妻の役をマルタにお願いする。口裏など合わせて、エルマンを迎え入れた短い生活が始まる。マルタはハコボに恋愛感情があるわけではなかったが、男女の関係を当然として意識する。いつもと変わらない個人的な日常と社会的な夫婦の関係を演じるなかで、他人に必要とされたい自分をお互いが意識し、擬似生活がすすむ。

 兄夫婦であると知っていながら弟エルマンは、マルタへの自分の好意を伝えるような優しい接し方をする。マルタは必要とされる自分に戸惑いながらも嬉しく思いエルマンに少しずつ好意を抱いていく。マルタはハコボに恋愛感情を抱いていたし、ハコボもマルタに好意を持っていたが、止まってしまった時間のように二人はお互いの関係の変化を恐れていた。

 優しくするエルマンの恋愛の手法に、マルタは口説き落とされてしまった。口説き落とした後のエルマンのマルタに対する態度は、飛行機がゆっくりと離陸する風景を背景にして、それまでの優しい接し方とは変わってしまった事を告げるが、マルタはそれを含めてエルマンを受け入れる。

 エルマンの帰国後、ハコボとマルタはこれまでと変わらない生活を始めるはずだった。が、彼らのこれまでの関係は終わりを向かえ、映画はエンドロールを迎える。(おそらく、マルタはエルマンの後を追いかけて出国してしまったのだろう。)

 高齢者の恋愛を素晴らしく上手く表現した映画である。ウルグアイの映画であったためか、ゆっくりとした時間の流れの描写が素晴らしい。

 時間の流れは時代や場所によって異なるが、認識に大きく影響を受ける。人為に影響を受けない社会は確かに存在したし、そこでは人間の外部に主権があった。それは、人の意思を受け入れない不動の世界と言い換えられ、同じ状況を繰り返す社会だったと言える。普遍の時間を感じさせるほど、時間には意味がない社会であった。

 そうでない社会(=今現在我々が生きる現代社会)は、それまでの時間の概念を変え、努力が結果として(インプットがアウトプットとして)、即座に反応として現れる社会だと言える。つまりは、人為が世界を変えられる社会を獲得した。主権は人間側にある。

 主権が人間側にある社会は、望みが通じる社会と考えられ、変化が訪れる世界は、時間を生み出したと言い換えられる。「時間」と「変化」は同じことの言い換えなのだろう。「変化」が「時間」に意味を与え、「時間」が「変化」を計測する。人為が通じる社会変化を意識できる社会が時間を創造した。

 映画で取り上げられていた変化から切り離され、変わらない時間を生きる高齢者を考えてみる。恐れずにいえば、高齢者は、社会的な時間とは無縁の世界に生きている人々と言える。高齢者は現代に生きていても時間や変化とは関係なく生きてしまっている。時間は誰にでも平等に流れているが、変化を感じ得ない人や変化を求めない人に時間は無意味である。

 皆が獲得した1日が24時間で均等に計られるという尺度=時間は、今の世に何を意味するのかと考えてしまう。時間・変化から取り残された人が高齢者であったが、時間と無縁の社会に生きる人を「高齢者」という言葉が意味していた位置に定義しなおした方が良いのだろうし、その定義で言えば、その中には若者も簡単に含まれのだろう。

 時間が意味をなくした社会とは、年齢に関係なく、変化と無関係に生きる人で埋め尽くされた社会なのだろうと私は肯定的に考える。そう考えると、皆が変化を獲得できる社会に意味が生まれ、年齢的に高齢化する社会を問題視しない状況を作り出すことができるのだろうと思う。

よい映画なので是非。ウルグアイの映画です。
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映画の見方はいろいろあるもので、マルタは2人の男性にあきれ、お金を持って今までの生活を捨てて、都会へ逃げ出したという感想を聞きました。そういった見方をした男性もいますし女性もいます。それはそれで面白い話だと思いました。
主体性のないマルタにそんな行動はできないと思う私はそう考えませんでしたが、人間を考えることは楽しい事だと心から思う。 (2005.05.12)

フアン・パブロ・レベージャ監督&パブロ・ストール監督
2004年ウルグアイ、アルゼンチン、独、スペイン映画

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