カントはかく考える
1972年頃に著

 本論は、1972年頃に、とある同人誌に寄稿したものです。
当時は、<メカケ>が革命を起こすのか、といって学生運動の仲間からも酷評されました。
なにせ肉体関係ができたら籍を入れる、それが男性として責任を取ることだと、女性たちが考えていたのです.
だから、どんな時代だったかわかるでしょう。

 当時の空気を良く伝えていると思い、田中美津「いのちの女たちへ」をとりあげたので、古い原稿ですが掲載します。

 ヒトの心は言葉が出来て後、誕生したのだ。
命をかけて、食い物を捜し、女をものにせんとする生活ばかりの頃は、心なんて這い出る余地はなかった。
いつの頃からか、言葉なんていう妙なものを覚えたおかげで、ヒトはものを考えるようになった。
言葉は生活から生まれたんだ。
各自違う生活から飛び出した心は皆また違う。

 しかし皮肉なことに、生活から生まれた言葉は、生活を離れられない。
アイディアをこねくりまわして、とてつもなく独創的な考えを作り出すことは難しい。
そのうえ、具体的でないものを考えるのはやっかいだ。
メシは腹がかぎわけ、女は体がふるえる。
メシ、女…具体的だからピンとくる。

 ところが、国家だ、思想だといわれても、ピンとこない。
政治なんて言葉もそうだ。
偉いヒトが言っていた、
<政治は政治家だけがやるのではないのです。国民1人1人に関係しているのです>政治は不思議だ。
状況の中から一つを選ぶと、他は自動的に捨てられる。

 政治と関係したくて連合赤軍は登場した。
連合赤軍、リンチ殺人、浅間山荘で銃撃戦。浅間山荘での銃撃戦は支持するけど、リンチ殺人は支持できないなんてナンセンス。
彼らの行動を分けて考えることは出来ない。
リンチ殺人は政治集団が自己の目的実現のために、不良分子を整理したんだ。
よりその道に適合するよう自己変革した軌跡だ。
部外者の僕たちは、頭でどんなに理解しているつもりでも、やっぱり彼らと行動を共にした同志ではない。
批判する同志なら、主流派を殺さざるを得ない。

 政治領域では、半分支持、半分反対なんて許されない。
YESかNOのどちらかだ。
全面支持、もしくは全面反対。

 異端と正教のつばぜり合いのなかで生まれた近代社会。
寛容が支配した日本。
ギスギスした関係を見ることは出来ない日本。

 革命は政治革命に始まるが、政治領域では終わらない。
いや逆に言えば、社会的にそれを支える部分が成熟しないのに、政治革命のみが先行することはない。
政治にかけた連中には政治がすべてだろうけれど、政治にかけないけど彼らと同じ道を歩いている人がいるはずだ。
緑魔子、若林美宏、桐島洋子、etc…、彼女たちの生活は連合赤軍と同じベクトルを持っている。

 彼女たちは世間の常識を無視して、好き勝手に生活しているわけだ。
緑魔子のお腹が大きくなることは、機動隊に向かって石を投げるのと、次元は違いながらも、同じベクトルを持っている。
私生児や三人同棲は、現在の秩序に対する挑戦だ。

 投石や火炎瓶は刑事罰で取り締まれるけれど、生活そのものは、法律でとりしまれやしない。
秩序の崩壊はお偉いさんにとって、非常に都合が悪いはずだ。
政治的ハネハネ氏の生活が、お偉いさんの敷いたレールにすっぽり入ってしまえば、ハネハネでお終い。
根なし草。
刑法は支配のための法で、法には社会準則という面もあるなんてナンセンス。

 緑魔子が世間から白い眼で見られながら、せり出す自分のお腹を見るとき、ポリ公をつるすときとは異質な微笑みが浮かぶだろう。
法や秩序とは無関係な地点から、生活を続ける楽しさは、連合赤軍の闘争の日々と同様に充実している。

 若林美宏が一人の男に独占されたくないと裸になるとき、役場の戸籍係はおもわず生つばを飲み込む。
彼女のファックは火炎瓶だ。

 未婚の母は、複数同棲は、ますます増えている。
そして、未婚の父も…。
好き勝手な生活から火炎瓶が飛び出せ。
右まき連中も、好き勝手にやってくるだろう。
でもそんな連中には、ザーメンを投げつけ、子宮にくわえ込んでしまえ。
その中から、拳銃を持て。
生きる…、ものをくらい、女を抱き、男を抱き…、その結果が秩序への挑戦になる。
意図的でない明るさ。
Make Me Free.
連合赤軍へは熱い抱擁を。
死したる先蹤者に黙祷を。

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