幸いなことに重大な麻痺も残らず、軽い脳梗塞でした。でも、自分では気が付かないおかしなところがあるかもしれません。当時57歳の匠雅音が、ベッドの上で過ごした11日間の記録と、その後日談です。
 脳梗塞という言葉はよく聞きますが、たいていの人は「まさか自分が・・」と思っているのではないでしょうか。ボクももちろんそうでした。だから初期症状が出ても脳梗塞とはまったく気が付きませんでした。
 脳梗塞に襲われたときに「あっ、これはやばそう」と疑えるように、出来るだけ細かく当時を思い出してみました。脳梗塞の治療は、ある意味時間との勝負になります。人により症状は異なるでしょうが、イザというときのために脳梗塞の初期症状がどんなものか知っておいても、決して損はないと思います。

2006年8月10日(木)

−第2日目− 絶対安静

 日は改まったが、昨日の続きの深夜である。

絶対安静と言いわたされた。

 食事はもちろんダメ。すべて点滴である。そして、トイレもダメ。オシッコはシビンでとる。入院したときの洋服さえ脱がすことなく、綿パンにTシャツのまま寝ている。とにかく、上を向いて横になっているだけ。加圧ポンプをつけたヘパリンの点滴が、規則正しく落ちている。

 病室の照明はすこし落とされているが、それでも明るさは確保されている。廊下を隔てたナース・ステーションから、さまざまな音が聞こえる。そういえば、事前に予兆があった。昨日起きたときに、右手の感じがちょっと変だった。でも、大したことはないと、そのまま事務所に来たが、あれが前触れだった。

 昨日は、午前10時過ぎから第1回目のストロークがあり、夕方の5時過ぎに第2回目があった。そして、8時過ぎに第4回目のストロークがきて、その後はおちついていた。しかし、48時間は間歇的にストロークが襲い、いつ大きなストロークが来てもおかしくない、とS医師はいう。ドッとくる、くも膜下出血などと違い、脳梗塞は徐々にやってくる。

 第1回目のストロークで死ぬ確率は少ないが、それでも間歇的なストロークが徐々に重くなり、やがて全身痙攣をともなって、そのまま昇天することもあるらしい。

 小渕元首相は、このまま死んでいった。とにかく頭のなかの出来事は、危険この上ないのだという。たとえ死ななかったとしても、半身不随や言語障害などの、重い後遺症が残ることが多い。

 脳梗塞は昔からある病気なので、治療法もかなり確立しているらしい。血液をサラサラにするための点滴が有効で、最初のストロークが来てから3時間以内に、tPAという血栓溶解剤を用いた血栓溶解療法を施すことによって、そうとう程度が回復するらしい。意識不明で担ぎ込まれた患者でも、歩いて帰ることができるほどだという。

 小渕首相が脳梗塞で倒れたときには、tPAはまだ保険薬になっていなかったが、2005年10月より健康保険に導入されている。ボクの場合は、残念ながら待合室で4時間が経過しているので、tPAは使えなかった。
 しかし、しかし、ストロークが軽かったから良かったものの、大きなストロークだったら、待合室での4時間が命取りになっていた……と、あとで知って、絶句した。

 2時間おきの検温と血圧測定。
 小さな窓から入ってくる光で、時間の経過がわかる。点滴が空になり、薬の袋を取り替えに来る。4ヶも吊しているので、どれかがなくなって、看護婦さんはしばしば現れる。右手に点滴の針を入れていたが、腕の中で漏れていたらしく、右腕がパンパンになっていた。
 点滴などやったことがない。始めての経験だから、点滴をすると皆こうパンパンになるのだろう、と思っていた。看護婦さんが発見してくれて、点滴の針は左手へとうつされた。
 昼になった。最初のストロークから、やっと24時間たった。不安のなかに、あと24時間。

絶対安静とは、不安と共にひがな1日、ただゴロゴロすることだった。

 夕方になって、やっと水を飲む。S医師がきて言う。
「一過性脳虚血発作ではなく、左大脳に小さな梗塞があります」
これで2週間の入院が決定である。
しかし、この時点では、いかなる種類の脳梗塞だかは、まだ判断が付いていなかったようだ。
 まだ、絶対安静が続く。